のっぺらぼう
父とは血の繋がりのある肉親ではあるが、母も同じである。死んでしまった人だという割り切りを私ができていなければ、露呈してしまうこともある。疑念が疑惑に変わり、そこまで確証に近づくか。勘違いであったとしても、一度抱いてしまった疑念はそう簡単に拭い去ることはできない。
「やっぱり父が……」
見舞いに表れないことで、却ってその疑念は強くなった。見舞いに来なければ露呈することはないと父が思っているとすれば、父の血の繋がりに対しての認識が弱いということであろう。いろいろなことを一度に考えてしまった私は、そのまま深い眠りについてしまったのであった……。
果てしない
果てを見るなり夢想花
見れば見られるうつつ自我なり
絵の中の世界から表の世界は見えるのだろうか。今自分がいる世界がすべての中心だと思っている。それがごく自然で、疑うことなどありえない。勝手にまわりで起こっていることをすべて自然という言葉で片づけて、時には猛威を振るう自然であるが、言い訳の道具として使っていることも多いことだろう。
絵を見ていると、たまに絵の中に吸い寄せられそうな気分になることもあるというが、普通は考えられない。ありえないことだという思いが頭にあれば、決して吸い寄せられるなどとは思えない。
夢の中でなら絵の中と往来ができるかも知れないが、私の場合、そんな発想が浮かばないだろう、ありえないことは考えないようにするという意識が働いて、夢であっても、現実ではできないことを抑制する力があるようだ。
たとえば空を飛びたいと思ったとして、絶対に人間は飛べないという意識が働く。その時は夢であることを分かっていて、
「夢なんだから、飛ぶことだってできるはずだ」
と思う反面、
「できないことを自覚するのも夢の役割だ」
という考えもある。
「夢判断」という言葉があるが、言葉の意味はハッキリとは知らない。私の中では、
「夢が勝手に判断するということがある。本当に稀であるが、夢というのは基本的に潜在意識が見せるもので、勝手な判断などありえない。ただ、あまりにも現実から夢に入る時の感覚がいつもと違えば、夢が勝手に判断するというものである」
という考えが浮かんだ。
ではどんな時に現実から夢に入る感覚が違っているというのだろう。夢が判断することが間違っていないとも言い切れない。だが、現実の私が判断するよりも幾ばくか、理路整然としたものがあるに違いない。
「夢が判断することって間違っていないのだろうか。減点法式の感覚が頭に浮かぶ。動くごとに隙ができる。まるで将棋の最初に並べた布陣のようだ
夢には時系列がないように感じられるが、実は一番時系列がしっかりしたものなのかも知れない。時間の感覚が一番大切な次元、それは四次元である、前にいきなり飛ぶことはあっても、後戻りは決してしない。絵が二次元で、私たちの世界が三次元だ。ではそれを結び付けているのが四次元の世界なのかも知れない。
絵の中に入りこんでしまった夢を見た。絵の中からは表の世界は、鏡の世界の中のように見えるのだ、ある一定の場所を通して見ると、表の世界が見えている。しかも見えているのは、目に見えることだけではなく、人が何を考えているかまで見えるのだ。そのせいか、ごくわずかな先のことであれば見えてくる。きっと人の考えていることが分かることで、先が読めるのかも知れない。
だが、それだけでは片づけられないものもあった。
鏡のように見える表の世界とを繋いでいる扉は、移動するのだ、絵の中にも世界があり、最初に描かれた世界が始まりであって、表の世界からも、本当は絵の中で繰り広げられる世界を見ることができるはずなのだ。
それができないのは、鏡が目の前のものしか映し出すことができないからだ。絵の中の世界での鏡は、向こうの世界が見える、まるでマジックミラーではないだろうか。
そういえば、ミラーハウスの鏡の中には、別の次元の世界に繋がる鏡があると聞いたことがある。到底、信じられる内容ではないので、聞いたとしても、右から左に聞き流して終わるだろう、だが、その話は誰もが一度は聞いていて、頭の奥に封印されているだけなのだ。
どこで誰から聞いたのか分からない。そんな鏡が異次元への世界との出入り口になっていると言われれば、なるほどと思うだろう。それは自分の中で意識として持っているからなのだ。
「俺、ミラーハウスで違う世界に飛び出したことがあるんですよ」
私が誰かに話している。この話は自分だけの胸にしまっておいて、誰にも言わないと心に決めていたはずだ。いったい誰に話をしようとしているのだろう。
なんと私の前にいるのは、自分ではないか、ミラーハウスの話を、鏡の前で自分にしているということなのか?
自分に今さらしているとは思えない。誰かにしているのだが、相手が見えていない。だが、それが鏡ではなく、次元を超えた世界だとすればどうだろう。話している自分には誰かが見えているというのか、時々微笑んだり、満足げな表情になっている。明らかに相手の表情を分かっていて反応しているのである。私はその時、次元の裂け目を見つけていると自覚しているようだった。
次元の裂け目とは大げさなようだが、その時に見た夢は、まさにその言葉通りだった。
絵の中から飛び出すイメージと、絵の中に入り込むイメージとでは、かなりの違いがある。絵の中から表を見る感覚も、勝手な私のイメージでしかないと思われるだろうから、誰にも言わない。あまりにも子供じみた話だとして片づけられてしまうであろう。
絵の中から表を見ているイメージというのは、きっと絵の中に広がっている空に、我々の世界が大きく広がって見えていると思われる。そんな時、私が感じるのは、
「どこまでが見えているのだろう?」
平面世界では、建物や山などの余計なものが見えないため、まわり全体が見えているかのように思えるが、果たしてそうだろうか。ただ、私たちには見えないものが見えているようで、気持ち悪い。ただ、絵の中の人たちが見えないものも私たちには見えている。平面ということは、自分のまわりは見えていないはずだからである。
もしも、絵から人間が飛び出してきたら、その人はどうなるだろう? ないはずの奥行きが生まれてしまい、耐えられないのではないかと思えてくる。それぞれの次元で命があるものがいるのだとすれば、他の次元では生きられないかも知れないと思う。絵の世界と行き来してみたいと思ってみても、それは無理なことだ。だが、絵の世界以外ならどうだろう? 夢の世界を四次元のように思っている人も少なくはない。すると、絵の世界にも夢のようなものがあり、私たちの知らないところで展開されているのだとすれば、急に目の前から消えた人がいたとしても、理屈に合うかも知れない。
「自殺が病原菌によるものだ」
という研究が最近クローズアップされている。最初に言い出したのは、この病院の入院患者だったという。彼に付き添っていたナースがその話をドクターにした。ドクターも同じことを考えていたらしく、彼が研究材料となったのは、当然だったと言えるだろう。