のっぺらぼう
私は今まで優しくされて育った経験はない。実の母は厳しかったわけではないが、優しくされたわけでもない。義母も、なるべく優しく接しようとしてくれているようだが、どうしても血が繋がっていないということで、遠慮がある。遠慮と優しさは似ているようだが、実際には平行線であり、交わることはない。甘えようとすると、義母の方が身構えてしまうからだ。それが分かっているから甘えることもしなければ、優しくされたという意識は生まれてこないのだ。
優しさがない相手に、大人の女を感じるはずもない。特に遠慮があれば他人である。一応は母という立場なのだから、優しさがなければ他人としての、遠い距離しか感じない。悲哀感が残るだけだった。
しかし、入院してからというもの、私自身が寂しさに打ちひしがれている。表には出さないようにしようとすればするほど、気持ちに苛立ちが生まれる。そんな不安な気持ちが、誰かを慕いたいという気持ちに変わり、最初に見た女性である浅間さんに「大人の女性」を感じたとしても無理のないことだ。
浅間さんは何も言わないが、彼女にもそれなりの過去があるように思える。私を看病しながら、自分も何かを探しているように思えるのだ。ある意味、同じ立場がかなりの部分を占めていることだろう。
元々入院する前の私は、余計なところに労力を使って、肝心なところがおろそかになってしまうような性格だったように思えてきた。自分が悪いわけではく、まわりの環境のせいにしていた。
人からも言われたことがあったが、ズバリ言われると、余計に意固地になり、悪いのは自分ではないと思い込みのだった。
そんな自分の性格を再認識したのが、入院してからで、寂しさが募るにつれて、不安感が深まっている。深まってくる寂しさが、本当は余計な心配なのではないかと思うと、幾分か気が楽になる。そのおかげで、以前の性格を思い出したというのも皮肉なことであった。
余計なことを考えていたのは、文芸部でミステリーを研究していたのも余計なことだった。だが、余計なことだというのは、研究自体が余計なことではなかった。研究することで、知らなくてもいいことを知ってしまうという意味での余計なことであった。性格とは恐ろしいもので、いつも間にか真実に近づいていることを暗示させるものであった。
ミステリーを読んでいて、ミラーハウスの話が出てきた。ミラーハウスを利用しての殺人だったが、トリック的なものよりも、人間の中にある深層心理を抉り出す発想がホラーに似たものを感じさせる。
無数に広がる自分の姿。同じ方向を向いているわけではなく、後ろを向いているもの、横を向いているものとさまざまだ、だから恐怖を感じるのだと思っていたが、実はそうではないらしい。
その話は、殺人を犯した人がミラーハウスに逃げ込んで、必死にもがいて表に出ようとするのだが、最初は見えていた追手の姿がなくなり、自分だけになったのだが、その自分がそれぞれの方向を見ている間はまだよかったのだが、次第にすべての映し出された自分が、迷っている自分の方を凝視している。
皆同じ顔をしている。当たり前のことだが、そのうちに今自分がしている顔と違う表情になった瞬間に、身体中の汗が一気に噴き出してきた。
「ギャアー」
思わず大声を出したが、ミラーハウスの中で声も反響した。その声は明らかに一人ではない。トーンの違う声が幾重にも重なって響いているのだ。
「誰か、誰か他にいるのか?」
叫び声を上げるか、今度は私だけの声だった。同じように共鳴したのなら分かるが、今度は一つなのだ。明らかに何かの意図が働いている場所だったのだ。
呼びかけたのが悪かった。ミラーハウスは呼びかければすべて自分に跳ね返る。恨みもすべて、無限の世界に入り込んでいる。どこまでが無限なのかを考えさせられるが、まるで小説の中に入り込んでいくような気持ちになるのは、自分がミラーハウスをよく知っているからだ。
ミラーハウスにはきっと不思議な力があるのだろう。私がこの話を読んだのも、ただの偶然ではないかも知れないということだ。ミラーハウスのイメージをミステリーに持っていることで、小説の方から私を呼んだのかも知れない。何か見えない赤い糸に手繰り寄せられた気分がするくらいだ。
「死んだ人がすぐそばにいるのを意識したことがあるかい?」
祖父がそんなことを言い出したことがあった。小学五年生になってからのことだったので、祖父も分かってくれると思って話したのだろう。いずれは話をしたいと思い、手ぐすね引いて待っていたのかも知れない。
「あると思うけど、お盆の時なんて、ご先祖様が帰ってくるんでしょう?」
「そうだよ。でも本当に姿が見えたりとかはないよね」
「うん、そんなことがあったら怖いじゃない」
「でも、怖いと思っているからこそ、姿が見えることだってあるんだよ。見たことがないというのは、怖いと思っている気持ちよりも、死んだ人がそばにいることなどありえないという気持ちの方が強いからかも知れないね。でも、おじいちゃんは、死んだ人が見えるんだ。おばあさんはすぐそばにいるんだよ」
成仏できずに彷徨っているという理屈は、小学五年生にもなれば理解できた。祖父の言っていることは、明らかにおばあさんが成仏していないということを言っているのだ。
「おじいさんはそれでもいいの?」
私は成仏できない祖母の気持ちになって話してみたが、それを分かっているのかいないのか、
「いいんじゃよ。わしもすぐにおばあさんのそばに行くからね」
一瞬祖父の影が薄くなったのを感じた。そして祖父の部屋にある仏壇のろうそくが、一瞬吹いてきた風のせいで消えてしまったのだ。祖父はそれを分かっていながら、もう一度つけようとはしない。
「ほら、今もおばあさんがそばを通ったんだよ」
祖父はそれから一か月後にこの世を去った。
「前の日まであれだけ元気だったのにね。本当に分からないものだね」
私は、その時、祖父が祖母の姿が見えた瞬間だったと思った。祖父もそれを望んでいたのだ。きっと大往生だったに違いない。そのせいか、悲しんでいるというよりも人生を全うした祖父に対して敬意を表するような雰囲気のままに、慌ただしさの中、葬儀まで無事に終了した。
身内の葬儀は、祖母の時が最初だったが、私はまだ小学二年生だったこともあって、喜怒哀楽の表現も表すことができず、無邪気だったのかも知れない。ほとんど悲しかった記憶はなかった。
その次は母の葬儀だった。あまりにも突然で、慌ただしさしか覚えていない。しかも、まわりはあまり悲しんでいない様子だった。母の葬儀の参列者は、ほとんどが私の知らない人で、実の母だというのに、どこか他人事に思えたくらいだった。
そのせいか、私は涙を流さなかった。まわりはきっと気丈な子供だと思ったことだろう。まわりに気を遣って、涙を流さないと思われていたのかも知れない。だが、実際には、涙が出てこなかったのだ。
悲しさは時が経つとともに襲ってきた。だが、葬儀で泣かなかったことが私の中にあり、悲しくても涙を流さないようになっていた。我慢しているという感じではない。無感情に近いものがあったのだ。