のっぺらぼう
再婚が決まって、一番ホッとしたのは、父だった。母のことが気になっているとは言っていたが、まわりが放っておかないのだから、まわりの喧騒にはほとほと参っていたのかも知れない。
家族ぐるみで付き合っていた人たちも、母が死んで最初は気を遣ってか、あまり家に立ち寄ることもなかったが、母の死が自殺であると分かると、それまでと打って変わって、親近感を深めてきた。
皆、自殺を「病原菌」が原因だと思っているのだろうか。仕方がない「死」をいつまでもひきづっているわけにはいかないという気持ちが強いのかも知れない。考えてみれば「病原菌」の話は、その友達から聞かされた話だったのだ。
「この話は結構、公然の秘密のようになっていてね。あまり口にすることは好ましくないんだけど、身内に自殺者が出ればそれは仕方がないよね。運命のようなものだと割り切るしかないんだよ」
確かにそうかも知れない。この話をきっと友達の両親が父にも話しているかも知れない。
「俺だって、この話は親から聞いたんだからな。きっと話しながら、いろいろ説得することもあるんじゃないかな?」
と言っていた。「説得」が再婚に直接結びついたかは分からないが、背中を押したことには違いないだろう。
私は中学に入り、美術部に入るか、文芸部に入るかを迷っていた。美術部にも魅力はあったが、文芸部に入部することに決めた。
文芸部では、主にミステリーを研究するようになった。最初は片っ端から斜め読みをするような感じで読み込んでいたが、次第に落ち着いてくると、作者順に読むようになっていった。
片っ端から読んでいる時は、売れた作品や、話題になった作品を中心に読んでいたので、同じミステリーでもジャンルはバラバラだった。そのうちに興味のある作者に巡り合うのではないかという他力本願的な考えだったが、それも一理ある考えではあった。
作者にくせがあるのも次第に分かってくる。特異なジャンルがあれば、作品にもアクセントをつけるようになる。アクセントが作者のくせであり、個性でもある。同じジャンルでも、くせがなければ他の人に勝つことはできないだろう。
「くせ」が、その人の代名詞になれば、しめたものだ。ミステリーのパターンにも限りがある。いかにバリエーションを持たせるかであるが、バリエーションも他の人とかぶってしまうと、同じような作品が出来上がってしまい、最初から勝負にならない。
私がミステリーに興味を持ったのは、母が自殺したという事実があるからだ。自殺には必ず謎が含まれている。「病原菌」が原因だと思っていても、それだけでは説明がつかないことがある。逆に説明がつかないから、「病原菌」のせいにしてしまっていることだってないとは限らない。最後に結論に持っていけないのであれば、他のものに何かの理由をつけて結びつけるしかない。
私の好きな作家は、ミステリーというよりも、奇妙なお話を書くのが得意な人だ。ほとんどが短編で、見事に世の中の風刺を物語にしている。私が「大人の小説」として名前を挙げたい作者で、一番最初にシリーズで読んでみたいと思った人だった。
社会風刺というよりも、人間の中にある潜在意識や、無意識な行動などが織りなす世界を絶妙なタッチで描く。そんな作品は、えてして、
「俺にも同じような思いがあるな」
と、読者を唸らせることであろう。
「人生とは、二百ページの本である」
と言った人がいたが、私も同感である。小説を読み始めたのは、その人の言葉に感化されたからだ。確か私がまだ小学生だった頃だったが、中学生になりたくないと、漠然と感じていた時期だった。子供でいたいという意識ではないが、中学生になると、自分の個性がなくなっていくような気がしたからだった。
――それにしても、よくこれだけのことを分かっているものだ――
この病院で目覚めた最初は、何も分からない、まるで赤ん坊のような気持ちだった。純粋無垢といえばそれまでだが、不安もあったが、漠然としたものだった。
今は意識がしっかりしていて、知らなかったことまで分かるようになっている。病院で投与される薬が効いているのかも知れないが、自分の中で意識が変わってきているのかも知れない。
何も分からない中で目を覚まし、過去を思い出そうとしていると、思った以上に次々に浮かんでくる。確か、私は物忘れが激しい少年だったように思う。それが悩みであり、まわりを苛立たせたり、誤解を招くことに繋がったりもした。
――まわりに気を遣いすぎるからなのかも知れないな――
人に気を遣うと、自分のことがおろそかになってしまう。さらに気を遣いすぎると、自分というものを殺してしまい、自分を道端の石ころに追いやってしまうことになってしまう。
忘れっぽいのは、それだけ人に気を遣いすぎるからだという結論を自分の中で勝手に立ててしまい、納得させている。納得してしまう自分も自分なのだろうが、中学生の自分ではそれ以上は難しかった。
病院で家族に何度か会ったが、その都度態度が違うのも少し気になるところだった。一番来てくれたのは義母だった。父は仕事が忙しいという理由で、まだ二回ほどしか姿を見せてくれていない。しかも仕事が忙しいというのも義母から聞かされた理由であって、父は何も言わない。元々、余計なことを口にしない父だったが、さらに無口になっていた。私を見る目も、どこか悲哀に満ちていたようで、あまり気持ちのいいものではない。
義母はほとんど毎日顔を出してくれる。
と、言っても、最初に来てくれてから、数日顔を見せなかった。
――やっぱり、義理の母なんだな――
と思っていたが、二度目からはずっと毎日来てくれている。素直に喜びたいが、最初から二回目までの間に何かがあったのかも知れない、詮索してはいけないのだろうが、どうしても、義母の心境を知りたくて、顔を見上げてしまうのだ。
義母はにっこり笑いかけてくれるが、どこか父の表情に似ている。雰囲気は違うが、悲哀を感じさせる笑顔で、やはり、あまい気持ちのいいものではない。
そんな中、妹も何度か連れてきてくれている。妹だけは、義理であってくれて嬉しいと思うのは、妹に対し、女性という目で見ているからだ。自分だけではなく妹も、思春期と呼ばれる年齢に差し掛かっていたのだ。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
あどけなさの残る声がくすぐったい。懐かしさというより、女の子が甘えている様子は以前の妹なのだが、それ以上に、甘えは私への愛情ではないかと思えてくる。錯覚ではないことを願いたい一心であった。私の中の虚勢が答える。
「大丈夫だよ」
と、答えはしたが、妹のあどけない表情に戸惑いもあった。
自分は普通の状態であれば、理性が働くのであろうが、理性が効かない上に、妹が綺麗に見えてくるからいけない。きっと義母と見比べてしまうからだろう。
義母に対して感じたことのない「大人の女」を感じていた。病院に入院するまでの私にはなかったことだ。大人の女性を感じさせる暗示が、私の中に目覚めたのは事実であろう。
原因として感じられるのは、浅間さんだ。しかし、浅間さんを見ていて、そこまで大人の女を感じることはなかったはずだ。
――優しくされるからかな?