のっぺらぼう
「お面には、かぶった人と違う表情が浮かぶからね。しかもまったく表情が変わることはない。本人が悲しくても笑っているお面であれば、ずっと笑ってるんだよ。そういう意味ではお面というのは表情を隠すこともできるけど、まわりに不気味さを醸し出すし、かぶっている本人も気持ち悪さを感じるかも知れないね」
おじさんの話は難しかったが、分からなくもなかった。人のセリフをすぐに忘れてしまう私だけど、なぜかこれだけは覚えていた。疑問が残ってしまったものは、忘れようとしても忘れられないようになっているのかも知れない。
縁日も時間が経ってくるにつれて。お面をかぶっている人が多くなってきたような気がした。誰が素顔で誰がお面なのかと、不思議な気持ちにさせられた。お面をかぶっていないのに、まったく表情が変わらない人がいるような気がして気持ち悪い。それが誰だかわかっていれば探しもしたが、ただの予感であり、大勢の中で一気に見た顔の中に、何となくいそうな思いがしただけで、根拠のないものだった。
喧騒とした雰囲気が、急に静かになり、人の動きがスローモーションになったように見えた。目をこすってみると、また喧騒とした雰囲気に戻っていた。錯覚というのは気持ち悪いものだと感じさせられたのだ。
縁日は終日行われ、夜がクライマックスだった。一日で終わるのがもったいないくらいに誰も疲れたと言う者もいなかった。特に子供はパワフルで、誰に気兼ねすることなく過ごせるのが、縁日だった。
私は夕方近くになると、いつも疲れを感じていた。皆汗は掻いているが疲れた表情はしていない。誰もがお面をかぶっているかのように、疲れを感じさせない表情だ。ひょっとすると、疲れていても、まわりの元気な表情に疲れた顔は見せられないという一人一人の心境が、相乗効果となって現れているのかも知れない。
「顔の下にも顔がある。お面を取れば素顔が出てくる」
私がそんな風に思っているなど想像もできないが、縁日を思い出すと、まさしく私が考えていたことだった。縁日だけがお面の日ではない。交差点ですれ違う人の中にも、どれだけの人がお面をかぶって生活しているのかを思うと、自分もお面をかぶっていて、お面を取った時と違う世界が見えているのではないかという思いが頭を巡った。
時々違う世界が見えている。二重人格だと思っているが、それだけではないのかも知れない。記憶がなくても、違う世界が見えていたという感覚は残っているのだ。
そんな中で、縁日にはあまりふさわしくないと思えるような少年がいたのを覚えている。毎年の縁日で見かけるにも関わらず、縁日以外の時に見ることはなかった。それでも毎年の縁日には顔を出していて、鳥居のところに座り込んでは恨めしそうな表情で、まわりを見ていた。
「誰も気にならないのかしら?」
最初は私だけを見つめているのかと思っていたが、そうではないようだ。明らかにまわりが気になっているようで、彼に見つめられた人を見ていると、平然としたな顔をしている。
鳥居のところに座っているだけでも目立つのに、誰も気にしないのもおかしい。人が多い時など、押されて誰かに踏まれるのではないかと思うような時でも、彼は決して逃げようとはしない。
逃げないどころか、さらにまわりを気にしていないようで、人を見つめることが自分の仕事だと言わんばかりに、凝視すると、表情は本当にお面をかぶっているかのように無表情になる。
人は、ある程度、感情をあらわにした表情をした後は、能面のようにあっさりした顔になるという。
一番恐ろしい顔ってどんな顔なのかと聞かれて、能面のような顔と答える人もいるという。まさしくその話を思い出させる少年だった。
どこにでもいそうな少年なのだろうが、最初にインパクトが強ければ、この場でしか存在しえない特殊な少年に感じられる。縁日のような場所では明らかに場違いでありながら、まわりの誰にも気にされることはない。
「他の人にとっては、まるで道端に落ちている石ころと同じ感覚なんだわ」
確かに道端の石ころは、そこにあっても誰からも気にされるものではない。私はそんな石ころのことを、何度か気にしたことがあった。石ころのような少年である。彼は私が今までに気になった「石ころ」少年たちとは、雰囲気が違っている。能面のような顔の中に、険しい感情が目を瞑れば浮かんでくる表情に表れているのだった。
砂漠を見ていると、表に一度は出てみたい衝動に駆られてしまった。砂漠に見えているのは錯覚ではないかと思えてきたからだ。ただ、表に出ることをどうしてもためらってしまう。理由は表に出ると、二度と戻ってこれないような気分になるからであった。
私が砂漠に足を踏み入れる。その瞬間に、目の前に見えているショッピングセンターが姿を消してしまいそうで、ハッと我に返って、今度は後ろを振り返る。
するとどうだろう。一歩踏み出しただけの病院が、かなり遠くに控えているではないか。大きく聳えているのを想像していたのに、ショッピングセンターが見えていたのと同じくらいに遠くに感じられる。
――私は、取り残されてしまったんだわ――
と感じるだろう。
進むに進めず、戻るに戻れず、途方に暮れてしまうに違いない。だから、表に出ることをためらってしまうのだ。
砂漠にオアシスというが、そんなものがどこにあるというのだ。動くはずのない土地が動いたのである、そんな時、縁日の少年の顔が思い浮かぶ。
しかも、彼の顔は空に大きく浮かんでいた。雲一つない空いいっぱいに顔が広がっていて、私を見下ろしている。だが、その顔を意識すると、今度は私が安心感に包まれた。見下ろしている彼の顔には恐ろしさを感じることはなく、救いの神であるかのように微笑んでいた。何もかもが錯覚なのだろうが、その顔は、油絵で描かれた絵のようにも思えたのだった。
その時私が本当に表に出たのか出なかったのか分からない。しかし感じたことは妄想だった。妄想とは果てしなく広がるものだという意識から、その時に思い出したものが広がって見えてしまうという発想なのかも知れない。やはりどこか病んでいて、私の中で消化できないものが溜まっているのだろう。このことはドクターにも相談はできない。自分の胸にだけしまっておくものなのだと思った。
「でも、ドクターは分かるかも知れない」
これも根拠のない考えだが、それはこちらから言わなくても分かってほしいという他力本願的な考えであろう。それでも思い至る発想は、お釈迦様の手のひらで踊らされている孫悟空のように、すべて分かった上で、ドクターは敢えて何も語らないのかも知れない。もしそうだとすれば、いくらもがいてもどうにもならないのであれば、無理をすることはない。事態を見守っていくしかないのだ。
「明日、新しい患者さんが入ってきます。いよいよあなたにも働いていただきましょう」
院長室に呼ばれたので、何事かと思って向かったが、新しい患者の話だった。今までにも患者が入ってきたが、ドクターが最初から話してくれたのは、これが最初だった。私にも働いてもらうということも、今までのように助手ではなく、正式に患者を受け持つことになるのだ。
「どんな患者さんなんですか?」