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のっぺらぼう

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――なるほど、ピンクと言われたら、ピンクに見えなくもないかも知れないな――
 と、自分に問いかけて、自分で勝手に納得してしまった。
 私が絵画に興味がないのは、自分の中で色彩感覚に疑問があるというのも一つの理由であった。
「君の色彩感覚は、絵画をするには面白いかも知れないよ」
 と、私の色彩感覚に対しての考えを唯一知っている美術部の顧問の先生は、そう言ってくれている。
「でも、絵画って、目に見えているものを忠実に描くことが大切なことではないんですか? 私の感覚で忠実に描ける自信はありません」
 というと、
「いやいや、忠実に描くことだけが絵画の世界というわけではないんだよ。絵画ってもっと広いものだと私は思うんだ。絵画だけに限らず芸術というのは、「表現」だからね。その人の個性を表現できればそれでいいと思うんだよ」
 先生と話をしていると、私が芸術に対してどこまで求めているのか、自分でも分からなくなってくる。目に見えていることだけが真実だと思う反面。先生のいうことも一理あると思っている。
 何を求めているかということではなく、「どこまで」求めているかということである。私の中で芸術とは、
「求めるもの」
 であった。
 それは先生も同じ意見で、
「求めるから欲が出る。欲を表に出すのが芸術だとすれば、それこそ、人それぞれにある「表現」こそが芸術なんじゃないかな?」
 まったく同意見。先生の言葉に感化されてか、私は絵画にも少しずつ興味を持つようにした。
 絵画とは、バランスの問題であった。色彩感覚に疑問のあった私が次に疑問を抱いたのはバランス感覚である。自分の中にどれだけのバランス感覚があるのか、実際に疑問であった。描き始めはバランスから始まる。遠近感が微妙な影響を与えるが、その遠近感に自信がなかった。
 これは色彩感覚よりも深刻だった。
「本当に僕のような人間が芸術をしていいんですか?」
 愚門であったが、先生にぶつけてみた。
「いいんじゃないかな。芸術は誰のものでもない。やりたいと思っている人のものさ」
 先生は、やりたいと思っている人のものだと言った。やりたい人「全員のもの」とは言わなかった。ここにも先生なりの考え方があるように思う。人それぞれの中に、それぞれの人の芸術があるということが言いたいのだろう。そう思うと、私も少し気が楽になってきた。そう、芸術は何も人と共有する必要などないのだ。
 彫刻の絵を見ていると、自分で作った作品を、描いてみたいという衝動に駆られた。今までは彫刻を作ってしまえば、次の彫刻と、出来上がった後のものへの興味は薄れていく。
 確かに自分で作った作品はかけがえのないものである。だが、いつまでも執着するわけにはいかない。執着できないのであれば、最初から次の作品を見据える方がいい。数をこなすことが私にとってのやりがいであり、それは出来栄えよりも、数をこなすことの方が楽しいと思っているからかも知れない。
 素人の作品なので、何度も手直ししてもたかが知れている。どこまでの作品に仕上げたいのか、どこかのコンクールにでも応募したいという思いがあるわけでもない。作りっぱなしと言えば言葉は悪いが、まず数をこなしていけば、そのうちに納得のいく作品ができるのではないかというのが、私の考えだったのだ。
 この店にも壁を見ると、いくつもの作品が飾られている。思ったよりも明るい作品が多く、目を引いたのは、茅葺屋根の家を描いた絵であった。さっきまで頭の中に残像として残っていた茅葺屋根の家、同じ場所だとは思えないが、頭の中でリンクしてしまい、かぶって見えてくるから困ったものだ。せっかく残っていた残像が、絵によってかき消されてしまうのが嫌だったが、絵の中の茅葺屋根も捨てたものではない。
「この場所にも行ってみたいな」
 と思わせるほどの絵であった。
 決して分かりやすい絵ではない。ただ、残像に残ってしまう絵ではあった。何よりもさっきまで残像として残っていた景色に、打って変ったのは一瞬だったからだ。
 絵画を見続けていると、次第に小さくなってくるのを感じた。いや、それこそ錯覚で、遠ざかっているように見えたのだ。
「この絵の中に自分が入り込んでしまったら怖いな」
 という思いもある。じっと見続けていると、その世界に入り込んでしまうのが私の悪い癖で、本当に入り込むわけではないのに、余計な心配からか、小さくなってしまったら、自分が入り込む隙間はないという、根拠のない思いが頭の中を巡るのだった。
 絵画への思いが先生との会話を思い起こさせる。
「私も学生時代はプロの絵描きになろうと志したものさ。でも、そのうちに人に教える方が性に合ってるように思えてきたんだ」
「それは急にですか?」
「そうだね、急に思ったんだ。絵画というものは色彩感覚とバランス感覚。違うもののようにも思えるが、結局は同じところから派生しているんだよ」
「先生はどうして先生になろうと思ったんですか?」
「絵を描いていて、急に自分が受け身になっていることに気が付いたんだ。目の前に見えることを忠実に描くのが絵画だって僕もずっと思ってきたんだけど、それだけじゃないんだ。時には不要なものはカットしたり、想像の世界で見えたものを描いてみたりするのもプロなのかも知れないね。でも、一度目に入ってきたものを加工するなんて僕にはとてもできそうにない。だから、絵を描くのが受け身に感じられるようになったんだ。もう、そうなってしまっては、攻めながら描くなんてできないんだよ」
「攻めながら描く?」
「そうだよ。どんなことでもプロと呼ばれる人は攻めの気持ちを忘れない。忘れてしまっては、もはやプロとは言えないんだ。実は、僕もプロの仲間入りをしかかったことがあったんだけど、攻めの気持ちを忘れてしまって、結局はプロになる前に引導を渡される結果になってしまったんだ」
 先生も苦労したのだろう。話を聞いていれば身につまされるものがあった。まるで自分の将来ではないかと思うほど、真面目に聞いてしまったが、時間が経つと、気持ちも萎えてしまう。しょせんプロなどなれるわけもないし、なったとして、苦労は目に見えている。余計なことを考えないに越したことはないのだ。
 教えるということなら、何とかなるかも知れない。
――先生か、それもいいな――
 小学生の頃、先生に憧れたこともあった。勉強が嫌いなくせに、先生になろうなど、笑い話もいいところだが、なれないからこそ憧れていたのかも知れない。尊敬の念がそのまま憧れとなり、子供心に、
――成長していくうちに、勉強だって好きになるさ――
 などという楽天的な発想は、実におめでたい考えだといえよう。
 冷静だというわけではないが、時々自分を客観的に見ていることが真剣で真面目な自分を表現しているように思えることがある。楽天的な発想は、そんな客観的に自分を見る目が生み出しているのかも知れない。
 芸術的な絵を見ていると、母の顔が思い浮かんだ。
 と言っても、今の母の顔ではない。母が若い頃に知り合いの画家に描いてもらったという絵が、母の部屋に飾ってあった。
作品名:のっぺらぼう 作家名:森本晃次