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短編集60(過去作品)

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 ロングヘアーの女性がショートにすると、少し違和感を感じることもあるが、ショートの人が自然に伸ばしたロングだと、それほど気にならない。ロングは一気にカットすることができても、ショートをいきなりロングにすることができないから、そのように感じるのかも知れない。その考えは当たらずとも遠からじであろう。
 最初から目立つ存在にも思えたが、立っている人たちは、それこそ自分のことだけで必死である。座っている人も、なるべく立っている人を見ないように下を向いている。皆が苦しんでいるのを見て見ぬふりをしないといけないことへのせめてもの気持ちではなかろうか。
 しかし、栄作はそんなことを意識しなかった。これまでこんなに人が多かったことなどなく、これからもこんなことはまずないだろうと思えるだけに、この光景を目に焼き付けておきたい気持ちの方が強かった。
 幸い立っている人は自分のことだけで精一杯なので、見られても気にされることもないはずである。意外と冷静だった。
 真ん中あたりの人でも吊り革に捕まっている人はまだいいが、何にも捕まるものがない人は、電車の揺れに任せてまわりの人にもたれかかるしかなかった。中途半端に満員であれば、それもきついだろうが、超がつくほどの満員ともなれば、人にもたれかかったとしても、それほどの違和感ではない。
 電車が揺れるたびに、人が揺れる。それも一瞬のタイムラグがあり、まるで、ウェイブが起こったかのように、波となって流れていく。
 ある意味綺麗にも見えるが、そこには低い呻き声が聞こえ、あまり気持ちのいいものではない。
――何とも不思議な光景だ――
 と感じると、しばらくは車内から目が離せなかった。
 そんな時に激しい揺れを感じ、押し潰されら人の中で、一人だけ顔色がずっと真っ赤なままの女性が気になった。
 綺麗な顔立ちに違いない。
 そんな女性が顔色を変えて、表情も明らかに歪んでいる。
――そこまで苦しいのかな――
 押し潰していた圧力はとっくになくなっているはずであった。
 その表情には歪みがあった。明らかに何かを嫌がっている表情である。
 膝が見えている足が微妙にもぞもぞしている。足場を確認しているように見えるが、h表情を見ていると、腰のあたりを気にしているようにも思えた。
 そう思って彼女の顔から視線を徐々に下の方に下ろしてくると、まずはスリムではありながら、結構豊満にも感じられる身体に魅力を感じていた。
 足が最初に気になったが。腰を気にしているせいもあってか、必死でくねらせているように見える。自分の体制をどこに持っていっていいのかを模索しているかのようだった。
 他の乗客とは雰囲気が違っている。満員電車で皆ウンザリはしているが、ほとんどが無表情の人たちである。
 しかし、彼女の表情は露骨に何かを嫌がっている。その視線が腰にいっていることを思えば、そこから導き出される答えは決まっているかのようだった。
 後ろには数人の男性が立っている。皆無表情であるが、彼らの中の一人に邪な感情を抱いている人がいるのだ。そう感じると、頭に血が上ってくるのを感じた。
 モゾモゾしているのが確認できると、視線は腰に向っていた。彼女の腰はちょうど座っている栄作の視線の高さとあまり変わらず、それほど離れていないせいか、すぐ目の前に見える感じがする。
 スカートが少したくし上げられているように見えた。膝が完全に見えてしまっている。しかも左膝だけである。見る見るうちに左側だけがたくし上げられていて、その横には見えない指が存在していることを感じていた。
――どの男なんだ――
 真面目そうなまだ新入社員を思わせるアイビールックに身を包んだ男、さらには、脂ぎったという表現がピッタリな典型的な中年太りを思わせるくたびれたサラリーマン。こんなやつを上司には持ちたくない。
 どちらにしても腹が立つ。いかにも中年という男性だと、完全に女性を蹂躙しているイメージで、セクハラまがいな関係を強いる妄想が頭を離れない。
 また清潔感のある男性の指だとすれば、これも手馴れた手合いではないだろうか。出来心で触ってしまったのであれば、少なくとも顔に表れるはずである。それがないということは、間違いなくその表情の裏にはオトコとしてももう一つの顔を持っていて、それがひょっとすると、
――この男の本性なのかも知れない――
 と感じぜざる終えない。
 どうやら見ていると、スリムなサラリーマンの手のようだ。やはりこの男は二つの顔を持っていて、しかも今は淫靡な顔がもろに出ている。表情は無表情なのに……。
 こんな男を見ていると、男性として許せない気持ちになるが、だからと言って、どうすることもできない。彼女は自分で必死に耐えているのだが、もしここで栄作が騒ぎ立てたとして、それが一番いい行動とは必ずしもいえないだろう。
 女性は恥じらいを気にするものだ。
「少しだけ辛抱すればいいんだ。あと少しだけ……」
 と彼女が思っているのであれば、無理に騒ぎ立てるのは逆効果だ。騒ぎ立ててなるほど、男は捕まるだろうが、彼女はどうなる?
 みんなが見ている前で、駅の公安室に連れて行かれて、その時の状況を根掘り葉掘り聞かれるだろう。
 通勤時間の満員電車の中ということで、彼女の知り合いが乗っていないという保障はどこにもない。あらぬ噂を立てられないとも限らず、彼女の社会的な立場を危うくしてしまいかねないだろう。
 また男を訴えたとしても、男の性格が分からないので、もしその男が逆恨みをするような男だったりして、ストーカーでもされればもっと怖いことになってしまう。
 いろいろなケースが考えられ、そのほとんどが妄想なのかも知れないが、ありえないことではない。何しろ、電車の中で瞬時にそこまで考えることができるくらいなのだから、行動は慎重に行わなければならない。
 彼女の表情をじっと見つめていると、そのうちにおかしな気持ちが芽生えてくるのを栄作は感じていた。
 気がつけば指先は痺れていて、喉もカラカラに渇いている。まわりが湿気を帯びた空間で、声がなくとも、何となくざわついた雰囲気が感じられることで、誰にも悟られなかったが、栄作の息遣いが次第に激しくなってきている。
「はあはあ」
 喉の渇きも仕方がないだろう。
 じっと一人の人を見続けるというのは、思ったよりも神経を集中させないとできないことだ。それはいい悪いの問題とは関係なく、じっと見続けると、自分がその人のそばにいるような錯覚に陥ることは往々にしてあった。
 彼女の息遣いを感じる。
 感じた息遣いは自分の胸の鼓動とほぼ同じであることに気付くが、痺れている指先も脈を打っていて、それも同じ感覚であった。
 今までに女性を抱いたことはあった。好きになった女性と初めて身体を重ねた時のことが思い出されたが、それほど前のことでもないのに、遠い昔のことのように思えてきてしまうのは不思議なことだった。
 妄想が広がっていく。
 目を瞑ると、自分は満員電車の中で立っていて、自分の前には一人の女性がいる。
 目の前に立っている彼女である。
作品名:短編集60(過去作品) 作家名:森本晃次