短編集60(過去作品)
平行線
平行線
「平行線は、どこまで行っても交わることはないんだ」
何かを対象に線を引いて、永遠に交わることのないものであれば、それを平行線というのだろう。平行線を引くのは実に難しいことだ。どこまで行っても交わらないものなど、そう簡単に作ることなどできないだろう。
だが、限りなく近いものはできるはず。限りなく近ければ、それを平行線と同等のものだと判断する場合も多いだろう。特に人の気持ちや性格など、いつまで経っても交わることのないものなのかも知れない。
同じ時間、同じ空間を意識しながら一緒にいると、同じ方向に向って歩んでいる気がしてくる。それが交わることがないのであれば、平行線だという考えに至ってしまう。平行線という言葉を意識しないまでも、性格の不一致を認めざる終えない人は多いことであろう。
今年の冬はあまり寒くなかった。暖冬と呼ばれるだけのことはあったが、普段雪が降らないところでも毎年、二、三回は軽く積もるはずなのに、今年はほとんど積もることはなかった。
それでも天気予報は雪が積もることを予想していた。普段あまり積もらない雪に対してでも、タイヤチェーンなどの対策はできていた。列車の運行も、線路の下から火であぶったり、道路も凍結しないような粉を撒いたりと、前夜からの対策は怠りなかった。
翌日になると、まったく積もっていない雪を見て、肩透かしを食らった形になったが、備えあれば憂いなしで、結局無駄になったことでも安堵の表情には変えられない。普段の日常生活を営めることのありがたさを感じることのできる時間でもあった。
それでも異常気象を反映してか、二月の終わりに大雪に見舞われた。忘れた頃の雪であった。
「時々こんな年もあるけど、困ったものだね」
そんな会話が聞こえてきそうだった。
高橋栄作は、電車通勤だったので、あまり雪を意識することはなかった。豪雨や暴風で電車が遅れることはあっても、積雪で長時間遅れることはあまりない。せめて三十分くらいの遅れがあるくらいであろう。
道路はそうは行かない。普段は十分ほどで行けるところを二時間くらい掛かるなど、ざらにあるらしく、しかも途中でスリップなどで事故を起こしたり、脱輪した車などがあると、まったく動かなくなる。何とも雪に対して車の無力さを思い知らされていた。
しかし、雪の影響は電車通勤の人間に思わぬ被害をもらたすこともある。
被害といえば大袈裟かも知れないが、普段は車で通勤している人が、電車通勤にそのひだけは変えるからである。
「車で出かけようとしたら、まったく動けない。少しだけ進んだけど諦めて、また家に戻ってから電車通勤に変えました」
という人もいるが、最初からそのことを予期している人も多く、電車内は普段座って通勤できる区間まで、ラッシュ状態だった。
まだ栄作は田舎の駅から乗るので、座ることができたが、途中の駅からは、乗ることさえできない状態である。アリの入る隙間もないほどの電車内は、異常な空気に包まれていた。
電車が動くたびにいたるところで悲鳴が聞こえる。声を押し殺したような悲鳴だが、それだけ人の体重がのしかかっているのだろう。
異常なほどの湿気で、メガネを掛けている人はまったく視界はゼロである。吊り革に捕まっているサラリーマンは、新聞を片手に持っているが、開くこともできずに耐えている。まわりの人がのしかかってくるのを嫌な顔をしているが、どうすることもできないでいるのが分かったが、もし自分が立っていたらどんな表情をするのだろうと栄作は考えたが、想像がつくものではなかった。
悲鳴は女性の声が多いが、男性の押し殺したような声もあった。あまりいいものではない。
――今日一日の辛抱だ――
誰もが同じことを思っているだろうが、座っている人、立っている人とでその思いに違いがあるはずだ。曇りガラスを指を当ててこすり、表の景色を見ると、一瞬どこを走っているのか分からなかったが、それは一面が銀世界だったからだ。しかも時間的にはそろそろ都会に入ってきていると思っていたが、どうやらまだ都会まで来ていないようなので、自分で考えているよりも時間の経つのが遅くなっている。
栄作の乗る電車は急行列車で、途中まではほとんど停車しない。それでもこれだけのラッシュなのは、今までに経験したことがなかった。毎年の雪でもここまではひどくない。それだけその日の雪は皆にとって青天の霹靂だったようだ。
季節はずれの雪でもなければ、結構早い時間の電車に分散するというものである。
人の事は言えない。実は栄作もそれほど激しい雪だと思いもせずに、普段どおりの時間に出勤していた。
「オオカミが来たぞ」
そんな声が頭の奥にこだまする。これだけ雪が降るという予測が何度もありながら、雪が積もらなかったこの冬、今さら積雪するなど、誰が想像しただろうか。
列車の中で思わず苦笑いをするが、それに気付く人などいるはずもない。皆自分のことだけで精一杯の状態だった。
「ガタン」
「うわあ」
電車が一瞬激しく揺れた。普段から電車に乗っている栄作は、ここでいつも揺れを感じることは分かっていたが、これほど激しいとは思わなかった。
――これも雪による影響なのかも知れないな――
と感じたが、ほぼ間違いはないだろう。
車両内を見渡すと、窓の付近に立っている人が一番被害が大きく、のしかかられて悲鳴を上げている。それも声にならないような低い声で、呻いているという方が正解だろう。
栄作が座っている位置から、窓に押されて苦しんでいる人はすぐそばに見えているが、
すぐに電車の軌道が元に戻ると、解放されたような安堵の表情にそれぞれが戻っていく。
茹だこのように真っ赤になった顔から血の気が引いていくようだった。
その中で一人の女性だけが、まだ顔色が紅いままだった。いくら軌道が変わって押し潰されることはなくなったとはいえ、身動きを取ることすらほとんどできない満員電車の社内では、かなりきつい表情の人もいるだろう。だが、その女性に限っては、明らかに他の人とは雰囲気が違っていた。
目が合ったわけではないのに、その人に目が行ってしまったのは、何となく自分のタイプの女性だという気がしたからかも知れない。横顔しか見えないが、窓から差し込む光に照らされて光っているのに、それでも紅く見えているのだから、かなり真っ赤だったに違いない。
朝日だけではなく、積もっている雪が反射して差し込んでくるのだから、普段以上に明るいのは当たり前である。その証拠に、そばに立っている人たちの顔色は、真っ白に見えるくらいだった。
その女性は背が高く、スリムに見えた。女性用のビジネススーツがよく似合い、髪型もショートカットでストレートなのは、清潔感を思わせた。
「ショートカットが似合う助成は、きっとロングにしても似合うさ」
と常々思っていた。
作品名:短編集60(過去作品) 作家名:森本晃次