短編集60(過去作品)
――話せばきっと分かるはずだ――
一番心強いやつが新聞社にいてくれたことはありがたい。
さっそく連絡を取って喫茶店で会うことにした。
「君から連絡をくれるなんて、何かまた気になることでもあるのかい?」
コーヒーにはうるさい相原が指定してきた喫茶店はコーヒー専門店で、店の近くまで来るとコーヒーの香ばしい香りが漂っていた。新聞記者という忙しい中でも、コーヒーへの情熱を忘れずに専門店を知っている彼に敬意を表した。
「そうなんだよ。最近本を読んでいて気になったんだ」
「何がだい?」
「君のところでの新聞で見た記事で、以前アメリカのどこかで老朽化した橋が崩れ落ちたという話が載っていただろう?」
「ああ、あったね。あれは人為的な事故ではないかと現地の警察も慎重に捜査しているね」
「それで、日本でも同じようなことはないかと気になってね」
「日本でも自治体の中には気になって調べているところもあるようだが、地域によって考え方が違うようで、取り組み方も全然違っている」
「他にもあると思うんだ。橋だけに限らず、建造物のほとんどでね」
「確かにそうなんだ。高度成長期にどんどん建てられたものが、どれだけの強度なのかというのも怪しいものだし、考えてみれば同じ強度であれば、ある一定の時期になれば、すべてが同じ時期に老朽化するという最悪のことが考えられる」
「それが怖いんだよな。一介のサラリーマンの俺がそれを調べるのは不可能なので、せめて国がどれだけ考えているのかだけでも分かればと思ってね」
「今のところ、考えているという話は聞いたことがないな。何か一つのものが壊れたら、それについて調べるところはあるだろうが、それもどれだけ真剣に調べるかだね。調べたとしても、それを改修したり、新しく作り変えたりというのは、その自治体の金銭的なものに関わるので、予算編成の問題までは、なかなか表から見ている分には分からないんだ」
「世論も、あまり気にしていないので、自治体も真剣には考えていないのかも知れないな。考えていたとしても、一人や二人が考えても、どうにもなることではないからね」
「後ろ向きの仕事は誰もやりたくはないものさ。とは言っても、そのうちにそんなこと言ってられなくなるだろうが」
「そこで、ペンの力に頼れないかと思ってね。表現の自由は認められているので、社説やコメントで意見してみるというのはどうだろう。新聞の力はまだまだあると思うんだ、だからそこから世論の意見が沸騰してくれば、少しは真剣みが違ってくるんじゃないかなと思ってね」
話を聞きながら相原はしばらく黙って考え込んだ。
考えてみれば彼にも立場もあれば、会社での地位もある。それを何も知らずに話に来ているのだから、かなり図々しい。
「やってみる価値はあるかも知れないね」
黙って下を向いていた相原は頭を上げると一言呟いた。その表情は店で最初に見せた顔とはまったく違い、真剣な表情になっている。まるで戦う前の格闘家のような表情だ。
加藤も相原の表情を見ていると、自分も真剣な顔になっているだろうと思っていた。喫茶店の中で二人だけが浮いていたかも知れない。できることなら、今度は楽しい話でもう一度この喫茶店を訪れたいものだ。
「ありがとう、だけど、あまり無理はしないでくれよ。こんな話ができるのは君しかいないので、君にしたんだけど、おれで君の立場を危ぶませたりしたくはないからね」
「分かっているよ」
少し怖い表情ではあるが、明らかに正義感に燃えている時に感じた学生時代の顔に戻っていた。本当にこれが普通の話だったらどんなにいいかと思ったのは、実に皮肉なことだった。
相原は、会社に戻ると、資料を集め始めた。
資料を集める分にはそれほど苦労はなかった。実際にそれほど自治体では、老朽化したものに対しての意識は薄く、
「本当にこれほどのものなのか。これじゃあ、世論は納得するはずはないよな。このまま黙っていることは、何かを欺くことだ」
と考え、
「じゃあ、何かって何なんだ?」
自問自答してみる。
「世論への欺きか、それとも自分の気持ちへの欺きか、いや、正義への欺きだ」
さっそくパソコンの原稿フォームを前に考え込んでしまう。
確かに訴えなければならないことは真剣に考えなければならないが、リアルすぎると暗に不安を募るだけだ。
かといって、訴えるところを訴えなければ誰も真剣に読んでくれない。せっかくの原稿、世論の意見の沸騰を期待して書くのだから、真剣に読んでくれなければ意味がない。
そういう意味では政治の世界に対してのコメントよりも難しい。確かに政治が相手であれば、政治家の立場や、政党の問題を考えなければならないだろうが、今度のコメントは、社会問題を引き起こすものだ。
社会問題にしてしまわなければならないが、あまりリアルなことを書くと、却って敬遠される。そこが難しいところだ。しかも自治体もなるべく触れたくない問題に違いないので、下手をすると双方からの板ばさみで、身動きが取れなくなる可能性もある。慎重を要することだった。
それでも何とか書き上げて、編集長へ原稿を提出した。
ちょうど編集長は、政治部でのスキャンダルに追われていて、なかなか原稿に目を通す暇がなさそうだった。二、三日放置された原稿だったが、編集長が目を通してから少しして、
「相原君、ちょっと」
と言って、会議室に呼ばれた。
愚にもつかない原稿であれば、デスクに座ったまま呼びつけられて、罵声を浴びせられるのが落ちだろう。
「なんだ、この原稿は。こんなもの使い物になるか、頭洗って出直して来い」
と言ったセリフなど日常茶飯事で、聞き慣れていたが、会議室に呼ばれるというのは少し異例である。
「何でしょう? 編集長」
編集長は広い会議室の奥に座り、灰皿に灰を落としながら、せわしげにタバコを吸っていた。イライラしているようには見えないが。
「君のこの記事なんだが、これは本気かね?」
「ええ、もちろん本気で書きました。実際に危険性があることを黙っておくことはできないと思いまして」
「しかし、この問題は思ったよりも大きな問題で、下手をすると世間を騒がせただけで終わってしまうかも知れないぞ」
「分かっているつもりです。でも何もしないのは、ジャーナリストとしての自分が許せない気がしたんですよ」
「正義感かね?」
編集長の表情が一瞬緩んだ。だが、視線だけは鋭い。
「それだけではないですが、とにかく考えなければならない事実です」
しばし編集長は視線を相原に送った。
相原は加藤から聞いた時、加藤の顔を見ることなく、自分だけの考えを集中させたいため、下を向いて目を瞑っていた。それに比べると編集長の態度は相手をしっかりと見据えている。
――さすがにジャーナリストとして伊達に長くやってないな――
と感じた。編集長になるくらいである。それくらいの度量がないと勤まらないのであろう。
「よし、分かった。考えてみよう」
「よろしくお願いします」
編集長の言葉は嬉しかった。だが、相原は表情を緩めることはなく、絶えず真剣な眼差しだった。お互いに顔を見合わせたままの会話だったのだ。
だが、その原稿は結局、没になってしまった。
作品名:短編集60(過去作品) 作家名:森本晃次