短編集60(過去作品)
何しろ数十階という高層ビルが、途中の階にいくつも仕掛けられた爆薬によって、まるで慣性の法則の実験である積み木のだるまを木槌で叩いているようなシーンを思い出させる。そんな比ではないのだが、理屈は同じで、それよりも、落ちてくるだるまの変わらない仏頂面が印象的である。だるまの背景は薄暗いモノトーンで、少々大きめの影が印象的なコントラストを描き出していた。
モノが崩れ落ちるシーンは、それほど今まで印象として深いものではなかった。
文明という時代の移り変わりの中で、必然なものとして不可欠なことであることは、意識の中にあるだろう。
「形あるものは、必ず滅びる」
という言葉を聞いたことがあるが、滅びるという言葉は尋常ではない。そして今の世の中には馴染まない表現である。
現在の日本という国は、平和の上に成り立っている国家で、滅びるという言葉を目の当たりにしている人も少ない。だが、実際には人間が老化していくのと同じで、構造物のすべては老化していっているのである。
そのことを、日本人のどれだけの人が意識しているだろう。
意識している人もいるかも知れないが、意識してもどうなるものでもない。建物にしても橋や道路という建造物すべてのものを作り変えるためには、まず相当な額の金がいる。そんなものを一市民である人にできるわけがない。
もし、市民団体を結成してある程度の金銭が集まったとしても、工事をするには、行政の許可だっているだろう。何と言っても、実際に世の中に貢献しているものを建て替えるのだから、住民への告知や、何よりも安全というものが完全に保障されていないとできることではない。
そんなことは分かっている。だから気がついた人がいても何もできないのだ。
小説などを読んでいると、時々、そんな苛立ちを感じさせるものがある。最初に読んだ時はそんな壮大なテーマが隠されていることに気付かなかった。壮大なテーマが描かれる時、その小説には多重テーマが張り巡らされていた。壮大なテーマを隠し味にして、実際はもっと身近な恋愛だったり、立場だったりという、一人称と二人称程度の範囲でのテーマを前面に出している話である。
一度読んだだけでは壮大なテーマはスルーされてしまう。どうしても身近なテーマだけを追い求め、そこに満足して読み直しをしない読者には、その小説の面白さの半分、いや半分以下しか伝わるものがないかも知れない。小説家の意思がどこにあるのか分からないが、加藤は読み直すことの醍醐味を知っている読者の一人であることが嬉しかった。
「作者としては、多重なテーマまで読者に感じてほしいとまでは思っていないのかも知れないな」
もし自分が作家であれば、どこまで読者に望むかというのを考えてみた。自分であれば、壮大なテーマを読んだ読者は、きっと極端な印象を持つのではないかと考える。
テーマの幅が狭ければ、それだけ感じることの幅も狭いだろう。批判的な意識は読者に芽生えることもない。サラリと受け流す読者も少なくないだろう。
だが、壮大なテーマとなるとそうも行かない。
社会問題になりかねないテーマに対し、読者の中には賛同してくれる人もいるだろうが、賛同してくれる人ばかりとは限らない。賛同してくれない人の全部と言っても過言ではないほどほとんどの人が、批判的な意見を持つだろう。テーマが壮大になればなるほど、中立的な意見というのは存在しない。必ず白黒つくだろうと思っている。
それだけ真剣に考えているのだろう。分かりにくい壮大なイメージを思い浮かべるには、それだけ読み手もエネルギーを使う。エネルギーを使って考えるのだから、中途半端な結論では、考える方も納得が行かないと思うからだ。
「作家というのは、意外と臆病な人が多いのかも知れないな」
これは、加藤の勝手な偏見であるが、奇抜な発想をする小説家は、かなり個性の強い人が多い。
個性的な小説を書く人に変わり者が多いというのも勝手な偏見で、その証拠に有名作家の中で自殺者が多いというのも、拭いきれない事実だったりする。
自分の世界に入り込んで小説を作り上げる。作り上げた小説の中に入り込んでしまった作家は、あまりにも壮大すぎるテーマに自分を置き換えることができず、そのまま彷徨っている自分を見ることもあるのではないか、それが自殺に結びついた人もいるのではないかと考えてしまう。
それを臆病と一言で言ってしまってはいけないのだろうが、少なくとも自分の作品と素直に向き合うと臆病になってしまうに違いない。だから、余計に読者に真剣に読まれたくないという気持ちがどこかに働いているように思えてならない。
もし、それが社会問題になったらどうだろう。
小説家は一躍「時の人」として世間の注目を集めることになる。本来なら作家冥利に尽きるとも言えるだろうが、本当にそうであろうか。誰にも悩みを相談できないところまで持ち上げられて、悩んでいることを一言でも話してしまえば、そこからの二次的な社会問題にまで発展すれば、もう誰にも止めることはできない。
――何ということをしてしまったんだ――
自分という人間を否定し、抹殺してしまいたくなっても無理のないことではないだろうか。それを思うと、作家というのが孤独で、孤独がゆえに信じられるのは自分だけで、その自分を信じられなくなると……。考えただけでも恐ろしい。
加藤が読んでいる作家というのは、神出鬼没で有名だった。
マスコミの前には絶対に姿を現さない作家として有名で、原稿も郵送やFAX、最近では電子メールに添付で送られてくるということだ。
原稿料も指定の口座に振り込むだけ、出版社も作家との打ち合わせなどしたことがないという。ある意味出版社任せになっているのだ。
そんな作家も珍しくないと聞く。
加藤の大学時代の友達の中に出版社に就職したやつもいるが、彼の話では、
「作家というのは気まぐれな人が多いから、俺たちはなるべく作家先生のやりやすいような環境を作ってあげるのも仕事の一つなんだ。原稿をいただいたら、後は先生たちの手を煩わせることなく、こちらの仕事として責任を持って出版にこぎつける。だけど、実際はそれだけじゃないんだ」
「というと?」
「作家の中には決して表に出てくることのない人もいて、すべてを出版社に任せている人もいる。実際に顔を見たことのない先生というのもいるくらいさ。最初は戸惑ったけど、慣れてくれば、先生は文句も言わないし、これほどやりやすいこともない」
「でもそれって、却って無言のプレッシャーに繋がらないかな?」
「それはあるかも知れないが、あくまでも慣れだよ。何だってそうだけど、一つ二つと壁を乗り越えれば、後はスムーズなものだろう?」
「そうかも知れないが……」
いまだ納得しかねている加藤に対し、
「そんな先生たちって、結構臆病なんだよね」
読書をして感じていることを出版社の担当も感じているようだ。
真剣に最近の老朽化について考えるようになった加藤は、新聞社に勤めている友達に相談に行った。彼は学生時代から加藤とは何かと意見が合い、意見が合わない時は、納得行くまで話をした旧知の仲である。
名前を相原といい、正義感に燃えているやつだった。
作品名:短編集60(過去作品) 作家名:森本晃次