短編集60(過去作品)
まだ若かったこともあって、彼女の本心が分からなかったのだろう。いや、ひょっとすると、今同じシチュエーションに陥っても、疑うことを知らないで付き合っているかも知れないと、栄作は思っていた。
彼女の立てたデートプランは、なるほど女性が立てただけのことがあると思わせるものだった。それまであどけなさだけが表に出ていたはずなのに、全体的に大人の女性をイメージさせるデートプランだった。
食事にしてもホテルの高級レストラン、映画を見るのも大人の恋愛もの、女性が憧れるデートコースを教えてもらったようなものだった。
彼女の表情を横から何度か垣間見た。楽しそうな表情の時もあるのだが、時々まったくの無表情になることがあった。それは気にして見ていなければ分かるものではないだろう。そんな表情を、栄作はゾッとした気持ちで見つめていた。
――こんな表情になることもあるんだ――
無表情なので何を考えているのかまったく分からない。分からせようとしないがために無表情になっているとは思えないが、結果としては、ゾッとした気持ちが残ることになった。
その日のデートの最後はいつもと同じように夜の公園のベンチに座っていた。
その公園は夜になるとほとんどアベックだけになる。街灯も薄暗く、ベンチも点在しているため、他のアベックが何をしているか分からない。それだけに興奮するというものであるが、栄作にとって唯一、大人の恋愛を感じることのできる時間だった。
いつもは肩を抱くのが合図となって、栄作から彼女の唇を求めていたが、その日の彼女は積極的で、自分から身体をもたれかけてきたかと思うと、栄作の唇に自らの唇を重ねてきた。
一瞬驚いたが、すぐに喜びに変わり、
――この時を待っていたのかも知れない――
と感じたほどだった。
彼女が微妙に震えていた。初めて唇を重ねた時も微妙に震えていたが、同じ震えだった。しかし、その日の彼女はまったくその時と雰囲気が違っている。
いい匂いがしてきた。柑橘系の香りで、その日の香水が柑橘系であることを初めてその時に知った。
それまでは甘い香りで、
「バラの香りの香水なの」
と言っていたが、それから栄作はバラの花を見ると、彼女を思い出していたが、次の日からレモンを見ると彼女を思い出すのではないかと感じていた。
甘い香りで妖艶な雰囲気を感じなかったはずの彼女に、柑橘系の香りで妖艶な雰囲気を感じていた。それは震えが感じさせるもので、なるべく顔を見ないようにしていると聞こえてくる息遣いからも、妖艶さを感じるのだった。
最初以外の時、彼女から息遣いは感じられなかったが、きっとそれはお互いの気持ちが一致していたからだと思っていた。違うだろうか。その日はきっと新たな気持ちが彼女の中で芽生えたので、新鮮な気持ちが息遣いに変えたのだと思いたかった。だからこそ、栄作も彼女に妖艶さを感じたのだった。
――妖艶さ――
それが別れの代償になってしまったことを今栄作は思い出している。
別れについて彼女は自分の口から言うことはなく、栄作から離れることで自分の気持ちに整理をつけようとしていた。彼女の真意がどこにあるのか、栄作には分からない。
その時と同じことを繰り返しているようにも思える。
――ひょっとして、相手が気分は悪いことにつけこんで、仲良くなってしまったことが災いしていたのかも知れない――
とも感じたが、あくまでもなりゆきで、知り合うためのきっかけとしての一つの形だったに過ぎないだけではないかとも思える。もう一度同じ環境になっても、彼女だったら気になって声を掛けるかも知れないとも思っていた。それほど気になる女性であったことには違いない。
電車内で気分が悪くなった女性よりも、羞恥を受けた女性の方が、声を掛けるなら、相手の弱みに付け込んでいる度合いは高いであろう。だが、羞恥に震える女性の表情は、栄作にとって放っておけなかったのだ。このまま声を掛けずに終わってしまえば、ずっと後悔するだろう。今声を掛けなければ、次第に彼女への思いは強くなり、さらに自分の中で声を掛けるタイミングを失ってしまうであろうことを予期していたからだ。
声を掛けられた彼女の表情は、最初こわばっていたが、次第に落ちついてくると、笑顔も見えてくる。なるべく悪夢を忘れようという気持ちでいるのだろうが、すぐに笑顔を見せられるということは、栄作が考えているよりも、かなり強い性格を持った女性であることを示していた。
彼女を見ていると、電車から降りて少し時間が経っているのに、まだ揺れを感じている。まともに彼女の顔を見れないわけではないのに、どこかぼやけて見えてくるのが不思議だった。
――視力が落ちてきたのかな――
と感じながら、さらに彼女を凝視していると、次第に表情が懐かしさを帯びてくるのを感じておいた。
――この表情は――
顔が似ているわけではないのに、以前付き合っていた電車の中で気分を悪くした彼女と初めて出会った時の顔に似てきていた。あくまでも顔のパーツは違っている。それでも似ているように見えてくるのは、表情全体が似ているからだろう。
――この人を好きになるような予感がする――
そう感じたと同時に、
――俺の好みの女性というのは、今目の前のような表情ができる女性なのかも知れないな――
ということを感じていた。おそらく間違いはないだろう。
声を掛けた栄作に彼女はまったく抵抗感を感じていないようだ。そういえば、大学時代に声を掛けた彼女も抵抗感はなかった。まだあの頃はお互いに世間知らずで純情だったこともあるかも知れないが、今はそんなことはない。目の前の彼女もすぐに笑顔になれるあたりは、少なくとも自分を分かっている人ではないかということを思わせた。
彼女は名前を麻耶と言った。
そういえば、学生時代に電車がきっかけで知り合った彼女の名前も有里。名前が二文字の女性に縁があるというのは、考えすぎであろうか。
麻耶は、栄作の会社の近くでOLをしていた。家は二駅違うだけで、それほど遠くないのも偶然ではないだろう。
普段、麻耶は車通勤なので、出会うことはなかったが、もし電車通勤であれば、今までにも出会っていたかも知れない。
――同じ電車に乗っていて、毎日顔を合わせていれば、知り合うことになっただろうか――
栄作は考えた。
麻耶はどうだろう? 彼女も同じことを考えているのだろうか。栄作にはその気持ちを図り知ることはできなかったが、きっと同じことを考えていると信じたかった。これは男性特有の思い上がりのようなものかも知れない。意外と女性はクールなものの見方をするらしい。
何度かデートを重ねたが、そのたびに彼女の後ろに男性の影を感じていた。時々寂しそうな表情になるからだったが、聞いていいのかどうなのか分からずに少しの間、気にしながら麻耶の様子を窺っていた。
「実はね」
そのことを察知したのか、麻耶の方から話をしてくれた。
「なんだい?」
作品名:短編集60(過去作品) 作家名:森本晃次