短編集60(過去作品)
何も分からない時に何かを考える行為。つまり普段の自分が懐かしい。何かを考えている時の自分が一番楽しい自分であることを今さらながらに思い出すのだが、鬱状態の入り口に立っている自分は、違う自分になっているのだ。
まるで夢の中に出てくる主人公である自分と、夢を見ている自分とを比較しているようだ。
夢の中で出てくる自分は、本当の自分ではない。あくまでも夢を見ている自分が本当の自分なのだ。だから、夢の中では何でもできると思っている。しかし、それでも何もできない自分がいるのは、夢を見ているのが本当の自分だということを意識しているからだ。夢の中ではお互いを意識しているに違いない。まるで、さっきの妄想の世界のようではないか。
――眠っていて夢の世界であっても、できないものはできないのだから、起きていて妄想する時に限界を感じるのも当たり前ではないか――
という考えに至るのも当然なのかも知れない。
列車の中で気になる女性が立っている。それを蹂躙している男がいて、それを見て思わず妄想してしまった栄作。しかし、妄想は妄想でしかなく、すぐに限界を感じてしまうが、そのことが栄作を鬱状態へと誘う結果になる。
――鬱状態に入りたくないな――
この状況をもう少し味わいたかった。女性の表情を見上げながら、さらなる想像を膨らませる。限界を感じるまでの妄想をもう一度感じてみたくなっていた。
栄作の降りる駅が近づいてくる。目の前で苦しんでいる女性を見捨てて降りるのは忍びないが、かといって、ここで騒ぎ立てるわけにはいかない。
彼女はこの状況が嫌でたまらないはずなのに、人に助けを求めようとしないのは、自分が受けている辱めを他人に知られたくないからだ。それを下手に騒ぎ立てて、せっかくの彼女の苦労を無駄にするわけにはいなかい。ここは、何も知らないふりをしてあげるのが一番ではないだろうか。
だが、犯人に対しての憎悪の気持ちは沸々と煮えたぎっている。悪を許せない気持ちである。元々栄作はマナー違反の人間を許すことができない性格で、電車の中での携帯電話の通話や、路上での咥えタバコなどマナーに反する人を見ると、睨み付けなければ気がすまないくらいである。電車内の携帯電話での通話に対しては何度か注意をしていた。ほとんどの人がバツの悪そうな態度でやめてくれるが、中には逆ギレするやつもいる。そんなやつを真剣許すことはできなかった。
栄作は自分の性格を時々、損な性格だと思う。悪を許せず一言言わないと気がすまなくなるのも結構なストレスである。
――何もそこまで神経質にならなくともいいのに――
分かっているくせに、実際に悪を見かけると、放っておけないそんな自分を、
――因果な性格――
と感じていた。
栄作が降りる駅では、結構たくさんの人が下車するはずである。普段でも、ほとんどの人がここで下車するので、ひょっとすると、彼女も下車するのではないかと思った。そして、一緒に見えない犯人も……。
犯人はともかく、果たして彼女は下車した。足は完全にもつれていて、雪崩に身を任せホームに降り立つと、そのまま崩れるようにベンチに腰掛けていた。
栄作は彼女の一部始終を見つめていた。もう気持ちは自分にはなく、彼女を見つめることに全神経が集中していたことだろう。
「大丈夫ですか?」
はぁはぁと息を吐きながら下を向いていた彼女は驚いたように栄作を見上げる。何とか呼吸を整えて、
「ええ、大丈夫です」
というのがやっとだった彼女だが、想像していたよりも声の感じはハスキーだった。喉がカラカラに渇いているのは想像できるが、完全に声が潰れているようだ。
当分立ち上がることができないような雰囲気なので、少し立ったまま、彼女を見下ろしていたが、少し呼吸が整ってきたのを感じると、栄作は彼女の横に腰掛けた。
「今日は異常なほどのラッシュでしたからね。気分が悪くなるのも当然というものですよ。立ちくらみを起こしたりするのも仕方のないことですね」
彼女が受けた羞恥をあからさまに話すことはしない。それは栄作の中でルール違反だった。
栄作は次第に彼女のことが気になっていた。
――もし彼女が羞恥を受けているのを知っていなければ、たとえ気分が悪くなっているからといってベンチに座り込んでいるところへ声を掛けたりするだろうか――
栄作は自問自答してみた。すぐには回答が返ってこない。即答できないということは、きっと声を掛けたりはしなかったであろうと感じていた。
学生時代にもラッシュの中で気分が悪くなった女性に声を掛けたことがあった。栄作が大学一年生、相手も同じくらいの年齢だと思えたが、どこか大人っぽいところがあるように見えていた。
それがきっかけで仲良くなったのだが、それは棚からボタ餅だと思っていた。
その女性は想像どおり、同い年であった。しかし栄作と違って高校を卒業すると、すぐに就職していた。高校の商業科を出ているので、最初から進学は考えていなかったようだ。
「先生からね、専門学校に行くのも選択肢だよ。と言われたこともあったんだけど、就職しちゃった」
とあどけない表情で話していた。そこには自分なりの考えがあったのだろうが、それを敢えて語ろうとしない。彼女はそんなところのある女性だった。
栄作の前ではあくまでも子供だった。実際にまだ何も知らない女性で、きっと男を知らないはずである。
――恋に恋する乙女――
という言葉を聞いたことがあるが、まさしく彼女はそんな女性だったのかも知れない。
「私、会社の先輩の男性から交際を持ちかけられて困っているのよ」
知り合ってから一ヶ月目で彼女が話してくれた。その頃には栄作も彼女と付き合っているような気分になっていたので、
「僕がいるから困っているの?」
と本音をぶちまけてしまっても、言ったことに自信があった。
「ええ、そうね。それも十分にあるわ」
という答えが返ってきた時、彼女の気持ちも自分と変わらないことを悟っていた。
彼女の気持ちに偽りはないだろう。そう感じると栄作は有頂天になる。大学というところは自分を見つめなおすための時間は十分すぎるくらいあるため、自惚れてしまうと果てしない。
寝ても覚めても彼女のことが気になってくる。二、三日会わないと気になって仕方がない。最初はそれでもよかった。
彼女との交際は実に清らかなもので、初めて唇を重ねたのが知り合って二ヶ月目、その頃には、彼女は間違いなく栄作の彼女だと思っていた。
彼女とは一体どんな関係なのかということを漠然としてしか分からない栄作だったが、彼女もきっと同じだっただろう。プラトニックな関係こそ恋愛だと思っていたわけではないが、彼女に対して腫れ物に触るような感じであったことは拭えない。
その頃になると、彼女の様子が少し変であった。
デートしたその時に、次のデートの約束をしていたが、いつもであれば、栄作が決めていた。しかしある日、
「今度は私が決めるわ。考えたら連絡するわね」
と言っていた。それまであまり自分の気持ちを表に出すことのなかった彼女だったので、栄作は、
――俺に対して完全に気持ちを開いてくれたんだな――
と感じたものだった。
作品名:短編集60(過去作品) 作家名:森本晃次