ジャスティスへのレクイエム(第4部)
しかし、自国で開発できたのだから、他の国が開発するのも時間の問題である。他の国が同じ兵器を持ってしまうと、それまでの自分たちが保持していた圧倒的な力や発言力はなくなってしまう。
しかも、次に開発する国が自国と同じ破壊力のものを開発するとは限らない。
「最低でも、同程度の破壊力」
を目指して開発を続けている。
同程度の破壊力を開発できたとしても、まだ世界に公開することを控えていれば、実際に公開した時には相手よりもさらに破壊力の大きなものである可能性は高い。
しかし、最初に開発した国も、そのまま黙って見ているわけではない。最初に開発した国としてのプライドからか、さらに破壊力の大きな兵器を開発できるという自信に繋がり、開発が抑止力に繋がっているという大前提を忘れてしまっている。
だが、結果としては抑止力に繋がっている。ただ、抑止力になっているという意識はない。あくまでも抑止力というのは、相手国が同じ力を持っていて、お互いに牽制することから成立するものだ。
お互いに相手よりも高度なものを開発しようとする開発競争は、抑止力に繋がるものではない。
「愚かにも、人類の滅亡というパンドラの匣を開ける結果に近づいている。全世界を巻き込む集団自決にほかならない」
とも言えるのではないだろうか。
世界史的に、今までの歴史は戦争の歴史でもあった。
その戦争の原因にはいろいろあるが、まずは領土的な野心。民族の自給自足のためにやむおえす領土をほしがる場合も領土的な野心と言ってもいいだろう。いわゆる、
「侵略」
というものである。
もう一つは宗教がらみのものである。
今でいう政治体制の二分、あるいは三分は、かつての宗教による細分化された世界を凝縮したものだと言ってもいいだろう。いろいろな宗教が存在し、中には一つの宗教から派閥となって別れたものが、それぞれに独立して、元々の宗教に宣戦を布告することもあっただろう。
宗教における戦争の中には、過激な集団もあり、そもそも考えてみれば、
「すべての人間は平等に生きる権利がある」
というのが、宗教の考えであるべきなのに、簡単に違う派閥の宗教を攻撃し、殺傷している。大前提すら崩れた状態で、何を信じればいいというのか、きっと戦争になってしまうとそこまで頭が回らないのだろう。自分の信じる宗派を守るという考えが主流となって、自爆テロなどの普通では信じられない行動に出たりする。
かつての戦争は、大量殺戮などない戦争で、武士道、騎士道などと呼ばれた紳士の戦いがあった。まるでスポーツ感覚の戦争だったのだが、大量殺戮が可能になってから、そんな理念はどこかに吹っ飛んでしまった。
今も昔も侵略は横行しているが、宗教がらみの戦争は次第に鳴りを潜めてきた。
確かに燻っているような状態で宗教戦争も行われているが、それ以上に抑止力を頭の上に控えさせての代理戦争が多く散見され、攻め込まれた方とすれば、完全な侵略にしか思えない。
攻める方と攻め込まれる方とで見解の違うという戦争も、現代戦争における一つの形なのかも知れない。代理戦争であり、しかも攻め側と攻められる側とで見え方が違っているのだから、こんな異様な状態もないだろう。
「戦争は始めるよりも終わらせる方が、何倍も難しい」
と言われるがまさにその通りだ。
しかも、今のように、異様な状態であれば、終わらせることの難しさがどれほどのものか、思い知らされたことだろう。
「その特徴として、まだ戦争が継続中のものが少なくはない」
という状態になっていた。
休戦状態という名前の元、完全な終戦となっていない戦争がたくさん散見される。
しかも、複数の戦争を掛け持っている国もあって、和平条約を結んでいないまま睨みあっているという状態である。
和平上宅には、相手のあることだ。相手も同じ考えでなければ、和平交渉はできないだろう。
少なくとも第三国の介入がなければ、和平協定など結ばれることはない。それぞれの国がお互いに少しでも都合のいい第三国を推してしまうと、収拾がつかなくなるのも無理もないことだ。
第三国が現れないまま、結局和平を拒否する相手を説得しながら、休戦状態が数十年と続いている戦争も少なくない。その場合、世間ではまだ戦争が継続中であるという危機感は薄れてしまっているだろう。
だが、今はそんなことはない。
一度休戦協定が行われないままの状態で、武装解除した国があったが、相手国はまだ武装を解除していなかった。
相手国の国民はそのほとんどが和平は結ばれたと思っていて、攻撃はないとタカを括っていたが、実際には戦闘状態が続いていたので、国境沿いの小競り合いが、全面戦争への火ぶたとなったが、実際には武装解除してしまっていたので、戦闘は始まった時からどちらに有利かは一目瞭然だった。
あっという間に侵略され、その状態で和平は結ばれた。結んだと言っても、相手国は政府だけを残して、国土はすべて蹂躙されていたのだ。すぐに政府は解散し、傀儡国家が作られたことで、戦争は終わった。一つの民族が滅亡したようなものである。その国には身分制度が復活し、敗戦民族の運命は、奴隷同然だった。
そんな状況を目の当たりにした国際社会は、休戦状態であっても、完全に気を抜いてはいけないという思いを抱くようになった。
それでも、それから数十年経ってしまい、国民のほとんどがかつての状況を知らない人が治める社会になると、皆の気が緩んできてしまったのも仕方のないことである。
チャーリア国では、休戦に関してシビアになっていた。
ジョイコット国やアクアフリーズ国ではその逆に、あまり意識している様子はない。しかしアレキサンダー国は、自らが軍事クーデター政権なので、普通の政権とは違うというコンプレックスのようなものがあった。
「普通の政権では意識しないようなことを意識するのが我々軍事政権だ」
というスローガンを持った政府なので、休戦状態を気にすることのない他国とは違うというところを見せるという意味で、休戦に対してシビアであった。これはチャーリア国の感じているシビアさとはまた違ったものである。
そんな中、休戦状態である中で、国家間での正式な条約は結んでいないが、裏で密約が結ばれている場合が多い。
その多くは、相手国をいきなり侵略しないというものであったり、そのペナルティに対しての規定だった。
密約は、結んだ人はそれが公開されるまで、その秘密を明かしてはいけないことになっている。
もし明かした場合は、極刑が課せられ、まるで国家反逆罪のような厳しいもので、その影響は本人だけではなく、家族や子孫にも及ぶものだったりする。
それだけ密約の存在は不可欠なものであり、公布の瞬間までに、明らかにされることがどれほどの罪かということを暗示していた。
休戦状態にしておくというのは、最初に始めた国同士、それぞれに利害が一致したことでよかったのだが、それが慣習のようになってしまうと、元々の主旨が忘れられてしまい、表に見えている部分だけが強調されることで、厳しい裁量になってしまうのだった。
シュルツと外務大臣はそのことをよく分かっていた。
作品名:ジャスティスへのレクイエム(第4部) 作家名:森本晃次