ジャスティスへのレクイエム(第4部)
「そう、あなたの知っているメルシーでは私はないの。そういう意味では、これが本当のあなたなのかも知れないわね。でも、それは私には永遠に分からないこと。私はあくまでも鏡に写ったあなたでしかないんですからね」
と、鏡の中のメルシーは言った。
その言葉は実に冷静で、笑っている顔なのだが、恐怖に歪んでいる顔にも見える。
――私なら、こんな表情できっこないわ――
とメルシーは思ったが、鏡の中の自分だからこそできるのだとも言えた。
――夢を見ているのかしら?
そもそも鏡を見るようになったのは、夢の中に鏡が出てきたからだ。
夢の中で見た鏡の向こうに写っている姿、それは自分が知っているメルシーだった。
だが、その性格はまったく正反対で、本当の自分を完全に毛嫌いしていた。
「あなたが鏡なんか見たりしなければね。私を知ることもなかったのに」
と、夢の中で鏡の向こうのメルシーが言った。
夢から覚めた瞬間、夢の内容は完全に忘れていた。だが、この言葉だけが印象に残っていて、自分が鏡に写った自分を見ていたという状況だけがこの言葉から推測できるのだった。
スパイになってから、メルシーは夜寝るのが怖くなった。
――寝ている間に誰かに殺されるのではないか――
という思いが根強くあって、普段は、
――スパイをすることに決めた時から、殺されるのも覚悟しているし、死ぬことへの恐怖なんてないわ――
と感じていたにも関わらず、眠りに就く前のメルシーは、その時初めて恐怖がよみがえってくるのだった。
元々スパイをしようと思ったのは、鏡に写った自分にそそのかされたからだった。
「あなたは、このままの自分でいいの?」
普段から鏡を見ることを避けていたのに、その時は不覚にも目の前にあった鏡に目を奪われてしまった。その時、急に当たりが暗くなり、そばにいるはずの日との姿は闇に消えていった。完全に自分だけが別世界に入り込んでしまったのだ。
その世界には影はなかった。
いや、影がないわけではなく、すべてが影だと言ってもいいほどの暗黒の世界だった。何も見えないことでその空間がどれほどの広さなのか分からない。だが、不思議と恐怖はなかった。
――目が慣れてくるまでの我慢だ――
ということが分かっていたからだ。
メルシーは恐怖に陥ったりすると、急に開き直れることがある。冷静になって考えると、怖いと思っているにも関わらず、冷静に考えることができる。冷静にならなければ、まわりを支配している闇に自分の存在を飲み込まれてしまうと考えるからだろう。
――私は、スパイの自分を凌駕できなければいけないんだ――
とメルシーは考えた。
スパイというのは、いつ誰に殺されても仕方のない運命で、影の存在なのだから、戸籍もない。秘密裏に殺されても誰もその事実を知ることはない。
「じゃあ、どうしてそんな運命に身を任せるんだ?」
と言われることだろう。
影の存在を作り上げた政府のお偉方には、影の気持ちなど分かるはずもない。だから、彼らは影の存在に報酬を与えて、任務の遂行へ気持ちを高ぶらせられると思っていた。
確かに任務に成功すれば、十年近くは遊んで暮らしていてもおつりがくるくらいの報酬を得ることができる。
だが、影はそんな報酬につられるわけではない。かといって地位や名誉に興味があるわけでもない。何しろ存在すら明確ではない自分たちに、地位や名誉など、何の役に立つというのだろう。
――隔離できるんだ――
メルシーはそう思うようにしている。
では、隔離とは何から何を隔離するというものなのか、最初は本人にも分からなかった。
ただハッキリしていることは、スパイを始めてから見る鏡の中の自分は、本当の自分を映しているわけではない。しかも、被写体になっているこっち側の自分も、本当の自分ではないような気がする。
――それが影というものなのか?
自分でも自分を隠しているという意識を感じている自分と、感じていない自分の二種類がいることは意識していた。
それは二重人格だという証拠ではない。むしろどちらも本当の自分ではなく、影に徹している時の自分が幻影となって表れているにすぎないとメルシーは感じた。
――ひょっとして写っていたのはマーガレットなのかも知れない――
と思うと、無性にマーガレットに遭いたくなった。
これがメルシーがマーガレットを訪ねた一番の理由だった。
メルシーはマーガレットに近づいた理由は、シュルツからの情報を得ることと、マリアを監視することが目的だった。シュルツからの情報はさすがに難しいと思えたが、マリアを監視することはさほど難しくないと思われた。
メルシーはすぐにマーガレットと仲良くなった。マーガレットはジャクソンと一緒に暮らし始めてから、急に自分の世界が狭くなった。別に結婚したわけでもないのに、家庭に収まってしまったような感覚は、それまでのマーガレットにはなかったものだ。
――なんとなく寂しい感じだわ――
自分の行動範囲が急に狭くなると、そんな風に感じるのだが、行動範囲が広かった頃も絶えず寂しさを感じていたのを思い出していた。
ただ感じる寂しさは種類の違うもので、行動範囲の広かった頃の方が、寂しさは少なかったように思う。その代わり、不安が絶えず自分の中にあって、その理由を今となって思うと、
「人と接していても、いつも冷めた目でしかまわりを見ていなかったからなのかも知れない」
と感じていた。
人と接するということは、どうしても打算的に考えてしまう。
――見返りは求めてはいけないんだ――
という思いはあった。
その思いがあったからこそ、余計に打算的に考えたのだろう。見返りを求めないという思いが自分を意固地にさせてしまったのか、自分が相手を探ろうとしているくせに、人から探られようという態度が見えると、完全に冷めてしまうからだった。
――冷めないようにするにはどうしたらいいだろう?
その態度が表に出ているような気がして気になっていた。
だが、最初から打算的にものを考えていれば、違った意味での冷めた目で相手を見ることになり、本当の意味での冷めた目を隠すことができる。
――木を隠すなら森の中――
まさしくその言葉通りだった。
ただ、普段から打算的に考えていると、自分が人よりも先に立って前だけを見ているような気がしてくる。つまりは後ろから見られていても、その視線を背中でしか感じることができないという思いであった。そのため、不安に陥るのではないかとマーガレットは感じていた。
そう思うようになったのは、ジョイコット国に亡命してからのことだった。それまでは、マリアのそばにいて、王宮という場所に守られて過ごしていたので気付かなかった。クーデターはまさに青天の霹靂ではあったが、マーガレットクラスになれば、
――あらゆる場面を想像して――
という意識を持っていたこともあって、その対処にしても、青写真はできていたはずである。
作品名:ジャスティスへのレクイエム(第4部) 作家名:森本晃次