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ジャスティスへのレクイエム(第4部)

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 ジョイコット国で異様に記憶喪失の人が増えた時期があったが、それはスパイになれなかった人のなれの果てであり、交通事故が多発したのもこの時期だったのは、その理由をいまさらここで話す必要もないだろう。
 ジョイコット国で軍部に入隊した彼女は、入隊から二年後に失踪したことになっていた。家族はすでに国外におり、
「娘さんが失踪しました」
 と聞かされた父親は、
「そうですか」
 と答えただけで、探そうともしなかった。
 母親がちょうどその直前に亡くなっており、父親は放心状態になっていたからだ。父親はその後、その国で犯罪を犯し、留置されることになり、最後は獄中で病死するという運命をたどったが、彼女はそのことを知ることはなかった。
 失踪した彼女は、ジョイコット国のスパイになっていた。顔は整形していたが、身体は昔のまま、完全に男を魅了するには完璧だった。
「一度あの女の虜になると、死ぬまで忘れられなくなる」
 とまで言われた彼女は、闇の世界では有名だった。
 だが、彼女がスパイであるということは誰にも知られていないため、彼女が表に出てくることはない。彼女は伝説として言い伝えられる存在だった。
 それでも彼女は実在した。
 彼女が目を付けたのがマリア妃と執事だった。
 特に執事には他の人間にはない何か鋭いものを感じた彼女は、いきなり執事に近づくことができなかった。
 彼は生まれながらの執事であり、主に対しての従は、命がけそのものであった。もし彼に対して色仕掛で何かを仕掛けてきたとしても、まず靡くことはないだろう。
 そう感じた彼女は、まずジャクソンを仲間に引き入れようとした。ジャクソンは執事と違って、主と仰ぐ人はいない。確かに執事の命令に対しては忠実であるが、それはあくまでも命令に対して忠実なのであって、人に対してではない。彼女のような国内スパイが相手にするのは、人に対して忠実な相手ではなく、命令に対して忠実な人間をこちらの手中に収めることを任務としていたのだ。
 ジャクソンは、彼女と知り合ってから、それまで知らなかった世界を覗いた気がした。
 マーガレットを好きになってからの彼は、マーガレットに忠実になっていたが、それは今まで知らなかった愛というもののすべてがマーガレットの中にあると思ったからだ。
 ジャクソンは恋に関してはまったくの素人だった。マーガレットに対してが初恋だと言ってもいい。
 マーガレットも今まで誰かを好きになったということもなく、ジャクソンが初恋だった。お互いに恋に関しては不器用だったこともあって、そんなジャクソンを手玉に取るくらい、彼女にとては朝飯前のことだった。
――マーガレットに悪い――
 と思いながらも、
「身体に正直になればいいのよ。我慢することなんかないのよ」
 と耳元で囁かれては、さすがのジャクソンも太刀打ちできなかった。
――心さえ奪われなければいいんだ――
 と自分に言い聞かせたジャクソンは、それが一番嵌ってしまうキーワードであることを知る由もなかった。
 だが、ジャクソンは飽きっぽい性格でもあった。彼女に対して心身共に奪われてしまったのであれば話は別だが、身体だけが身を任せるつもりになっていたので、飽きが来る頃には、
――なんで俺はこんな女に夢中になっていたんだ?
 と感じていた。
 冷静になって考えると、彼女がなぜ自分に近づいてきたのか考えるようになった。普通であれば、自分を誘惑した相手を許せないと思い、絶縁状を叩きつけて、
「さよなら」
 と言って、踵を返して去って行けばいいのだろうが、ジャクソンはその時、一歩立ち止まったのだ。
――俺がマリアや執事と一緒にいるからなのかな?
 と考えると、すぐに彼女のそばから立ち去ることはできなかった。
――もう少し一緒にいて、彼女の真意を確かめてみよう――
 と思ったのだ。
 ジャクソンが冷静になってくると、今度は彼女がジャクソンに対して従順になってきた。彼女は今まで男を手玉にとってはきたが、自分に対して冷静になれる男などいなかったことから、ジャクソンが冷静になったということを分からなかった。ただそばにいて、
――こんなにしっかりとした逞しい男性だったのかしら?
 と、急に今までの自分の目線と違った目線で見直す気分になっていた。
 ジャクソンも、彼女が急に自分に下から見上げるような目線になってきたことに気付いていて、
――俺のことを尊敬のまなざしででも見ているのかな?
 と感じるほどだった。
 それからの彼女は、今まで言わなかったことを少しずつ話し始めた。もちろん、スパイなので、機密にかかわることやそれを匂わすようなことを言うはずもなかったが、言葉の端々で自分が今までと違った目で見ているのだということを匂わすように見つめていたようだ。
 彼女が子供の頃の話を始めた。それはマーガレットと同じ小学校に通っていた時の話だったが、彼女が自分たちの母国にいたことは伏せていた。だが、ジャクソンは勘が鋭く、彼女の出身国が自分たちと同じだということを看破していた。
――彼女は、マーガレットを知っているのでは?
 と感じた。
 だが、マーガレットを知っているというのは、子供の頃のマーガレットを知っているというだけのことなのか、それとも今、マリアや執事、自分と一緒にこの国にきたマーガレットを知っているということなのか。もし後者だとすれば、今自分と一緒にいるということまで看過しているというのとなのか、そのあたりの真意がまだ分かっていなかった。
 だからと言って、直接聞くわけにはいかない。あくまでも彼女が自分が国内スパイであるということを隠さなければいけない立場だということはジャクソンも分かっていた。
 ジャクソンはこの国に入るまで、そして彼女と知り合うまでは、この国にスパイが存在しているなど想像もしていなかった。特に彼女はジャクソンの知っているスパイというものとはかけ離れているように思えた。それは彼女だけがそうなのか、それともこの国に存在する国内スパイという特殊なスパイ活動のせいで、この国のスパイ皆がかけ離れて見えるのかというのも分からなかった。
 何しろ、彼女以外のスパイを知らないからである。
 国民の中に紛れているので探すのは困難だ。他の国であれば、必ず母国から潜入したスパイが元締めとなりスパイ活動が展開されているので、全体を見ればスパイはおのずと行動が分かるというものだが、この国では皆が同じ民族なので、それを看破することは難しい。
 それが、ジョイコット国という国の特徴であり、小国の生き残るうえで考えられた工夫ということなのであろう。
――彼女がマーガレットと接触することはあるのだろうか?
 接触するとどうなるのか、想像してみたが、やはりできなかった。
 マーガレットと彼女では、育ちがあまりにも違いすぎる。スパイの彼女はずっと影のように暮らしてきて、今でも影に徹している。彼女を見ているとその行動が誰のためのものなのか、まったく分からなかった。
――誰のためでもないのかも知れない――
 影というものは、意志を持っていいものなのか、ジャクソンは考えていた。