短編集59(過去作品)
確かに愚痴を零したい時もあるが、居酒屋で愚痴を零している連中の話を思い出すと、情けなくなっている自分の姿が思い浮かんで、どうしても愚痴を零す気にはなれない。なれないから居酒屋やスナックには近づきたくない。一人になりたいという気持ちはそのあたりから来ているに違いなかった。
スナック「シモンズ」の常連の中に、なつみと呼ばれる女性がいた。いつも会えるわけではないが、一緒になる比率が高いことはマスターから聞いていた。
「お互いに気が合うのかも知れませんね」
「ええ、そんな気がしますわ」
彼女はあまり化粧をしているわけではない。目鼻立ちがくっきりとした清楚な感じの女性で、それまではかわいい感じの女性ばかり気になっていたが、それらの女性から比べれば綺麗な雰囲気を感じさせた。
――大人の女性――
と言えるのではないだろうか。
しかし、話し始めるとなつみの表情は豊かだった。
笑顔にはエクボが浮かんでいたり、肌が白いのが分かるので、表情にも影と明るいところがはっきりと分かれていて、それだけにさらに豊かな表情に感じる。同じ笑顔でも数種類の笑顔を見せてくれるのが魅力的だった。
声の感じも最初は無口だったことを思えば思ったよりもトーンが高いのにはビックリした。すぐに打ち解けられる雰囲気があったのも声のトーンの高さのせいであろう。
マスターも悪い雰囲気で見つめているわけではない。
――なかなかお似合いだ――
と思っていると感じたのは贔屓目に見ているからだろうか。当事者でありながら、どこか客観的に見ているのは、それだけ自分が順風満帆で来ていることの証であることを自覚するものだった。
なつみと初めて他でデートするようになったのは、バー「シモンズ」で知り合ってから二ヶ月が過ぎていた。それでもあっという間だった気がするのは、それだけ毎日が充実していたからだろう。
最初は喫茶店、すっかり打ち解けていて、喫茶店を出てから夜の公園のベンチで少し話をしたのだったが、その時にどちらからだっただろうか、雰囲気が淫靡に変わっていた。
「ホテルに行こうか」
さりげなく口にした言葉だったが、違和感はなかった。
「はい」
断られるはずはないという、これも根拠のない自信があったが。さすがに声が震えていた。出会ってから数ヶ月が経ってはいたが、初めてのデートでここまで淫靡な気持ちになったのは、きっとお互いを欲する気持ちが強かったからに違いない。
淫靡な雰囲気から妖艶な雰囲気に変わった。
淫靡な雰囲気とは、お互いにフェロモンを出しているから感じるものだが、妖艶な雰囲気というのは、女性の方のフェロモンが男性に比べてはるかに強くなった時に、男性が感じるものだ。
女性も自分に酔っているかも知れないが、男性としては悪い気持ちではない。
なつみの肌は、想像していたとおり、透き通るように白かった。
「いや、あんまり見ないで」
はにかんでいるが、決して見られることを嫌がっているわけではない。妖艶な雰囲気の中にあどけなさが残っていて、そのアンバランスがさらなる妖艶さを醸し出している。男にとってこれほど女性を感じる瞬間もないだろう。
「初めて見るような気がしないんだ」
「嫌だわ、他の女性と比べているの?」
と言って、身体をくねらせるのは、自分だけを見つめていてほしいという気持ちの表れに違いない。
「そんなことはないさ。君のその身体。僕の記憶の中に確かにあったような気がするのって錯覚なのかな?」
「そんなことないわ。私だって」
そう言って、確かめるようにお互いの身体を重ね、どちらからともなく、唇を塞いだ。
そこに会話があるわけではなく、湿気を帯びた柑橘系でさりげなく甘さを含んだ重たい空気が支配する世界があった。
まるで夢のような世界があっという間だった。それは夢であり幻であった。実際にあったことなのかどうか自分でも分からず、それからしばらくの間、客観的に見つめている自分の存在しか意識することがなくなっていた。
それはなつみにしても同じだったようで、お互いに会話をしていてもぎこちない。恥ずかしさからではなく、やはりお互いに自分を掴み切れていないのが原因ではないだろうか。
しばらくしてなつみとは別れることになった。お互いに一緒にいても楽しくない。納得の元に別れたのであって、後悔はないはずだったが、心の中にできてしまった隙間を感じていた和人だった。
――あれほど望んでいた女性の身体だったのに――
別れが相手と身体を重ねたことで、できてしまった心の隙間だとは思いたくなかったが、実際に後から考えるとそれ以外には考えられない。
――相手がなつみではなく他の女性だったら――
という考えが次第に強くなった。
だが、相手の身体だけが目的ではない。なつみ以外の女性を考えるなど、なつみを意識し始めてありえることではなかった。三十歳近くになるまで女性を知らなかったということが大きな理由であることは分かっている。なつみを抱いた時、心のどこかに、そのことにたいしての負い目を感じていたからに違いないからだ。
大学を卒業する頃までは、女性を見る目が露骨だったかも知れない。身体を見つめる視線と、顔を見る視線とを分けていたつもりでいたが、同じような見方になっていたことだろう。いやらしい視線を浴びせては、相手に不快な思いを抱かせていたかも知れない。もし自分にそんな視線を浴びせられたら、汗が滲み出るほどの気持ち悪さを感じていたことだろう。そんな相手をまともに見れるはずもない。老けて見られたのも、相手の気持ちの中に余計な先入観を抱かせてしまったことが原因である。
いや、実際に老けていたのかも知れない。自分の中にあるいやらしさが気持ちの余裕を奪うことで表情を歪に変えていたとも考えられる。年齢的にも一番綺麗な時期にある女性は、まわりに群がる男性の中には多くの素敵な人がいるという飽食の年代に和人のような精神的に余裕のない男性は、醜く見えたことだろう。
しかし、気持ちに余裕が生まれると、表情も豊かになってくる。身体の中から滲み出る匂いも、きっと女性を惹きつけるものになったのかも知れない。それは女性からも同じで、彼女たちの甘い香りの本質を、一番感じられる時期だったであろう。
初めて抱いた女性への思いは、そのまま中途半端に和人の中で残ってしまった。
――何となく想像していたものと違っている――
なつみ以外の女性も意識し始めた。だが、一度持った余裕は気持ちの中で残っているのか、同窓会などに顔を出した時、
「お前はずっと昔のままだな。俺なんか中年の雰囲気がどんどん濃くなってくるよ」
と言われた。最初はお世辞かと思っていたが、他の人からも似たようなことを言われると、まんざらでもないと思えてくる。
いいことなのか悪いことなのか分からないが、相手は完全に羨ましがっているのだ。素直にいいことだと思っていいだろう。
「お前くらいなら彼女は今までに一杯いたんだろうな」
と言われると、返す言葉がない。何しろなつみだけだったからだ。
実際には出会いがないわけではないのだろうが、なぜか知り合うまで行かない。出会いを求めていないわけではないが、知り合えないのだ。
作品名:短編集59(過去作品) 作家名:森本晃次