短編集59(過去作品)
人に委ねたいという気持ちもあまりなく、依存心もないつもりである。また、一人でいることが多いことも最近は自覚するようになっていて、むしろ集団の中にいる自分を想像することは難しかった。
依存心を持ってしまうと、人と一緒にいたり、集団の中にいないと我慢できなくなってしまうだろう。そこが犬に似ているのかも知れない。だから、自由奔放というよりも一人でいるのを見ている猫のようになりたいと思うのだろう。
猫と目が遭うのが気持ち悪いというのは、猫の視線が気持ち悪いだけではない。見つめ合っていると、まるで自分の心の奥を覗いているように感じられることが気持ち悪いのだ。心の奥にあるものが、見つめている相手を介して分かってくるなど、こんなに気持ちの悪いものはない。きっと、見つめ合っている相手の猫も同じかも知れない。そう思うと衝動的に襲い掛かってこられると考えるのも頷ける。
だが、会話は弾んだ。あっという間に彼の家が近づいてきて、
「じゃあ、俺はこっちだから。また会えるといいね」
と言ってくれた彼を見ていると、学校で見せる彼の顔とはまったく違った雰囲気があった。
明らかに違うのは、親近感が湧いてくるところである。
学校ではまったくの高嶺の花。話しかけることさえおこがましく、彼のまわりには絶えず女性がいる雰囲気を醸し出している。それだけ彼にアドレナリンが溢れ出ているのであろう。
女性を惹きつける魅力、それも猫に感じるイメージであった。
一匹でいることの多い猫だが、時々一匹の猫の後ろからもう一匹がついているのを見ることがある。それは一緒にいるわけではない。パッと見ればそれぞれ独立した存在なのだが、後ろの猫は完全に前の猫だけを意識しているのだ。
前の猫も後ろの猫を意識しているが、お互いにさりげなさが板についていて、分かる人でなければ分からないに違いない。
――猫のイメージだけなのかしら――
彼と別れて、犬を連れて帰りながら考えていた。目はポン太を見つめているが、目の焦点はもっと先にある。
ポン太もそのことを分かっているのか、振り返ろうとはしない。いつもよりも力強く持っている紐を引っ張っている。
「早く帰りたい」
そう言っているのだろう。
「はぁはぁ」
いつになく声も荒い。決して真理子の方を振り返ろうとしないところからも、すでにポン太にとっての散歩は終わっていたのだ。
気がつけば帰り着いていた。ポン太を犬小屋につなぎ、朝食を摂り、何事もなかったかのように普段どおり通学していく真理子だった。
学校に行くと彼とも嫌でも一緒になる。同じクラスで机もそんなに遠くないので、意識しないといえばウソになるが、視線を向ける気がしなかった。
彼はいつもの彼だった。朝のことなどまったく忘れているかのような雰囲気に、真理子は幾分か安心していた。話しかけられでもしたら、何と答えていいのか分からないはずだからである。
次の日も同じようにポン太の散歩をさせたが、その日は最初から彼のことを意識していた。
――きっと脇坂さんに会えるに違いないわ――
と思っていたのだ。
その日は日曜日だったので、時間に余裕がある。時間に余裕がある反面、どこか落ち着きがない。彼の存在が大きくなっていくのを感じているからだ。
その日、真理子は夢を見ていたようだ。ハッキリと覚えているのに、何とも曖昧なイメージなのは、以前にも同じような夢を見たような気がしていて、その時の感情と意識が交錯しているからだ。
夢に男性が出てくるところは同じで、昨夜は脇坂が出てきた。意識している男性が夢に現れたのは以前の記憶と同じなのだが、以前は誰だったのか覚えていない。
真理子には、その時々で意識する男性が現れる。さすがに夢に出てくることは稀で、ましてや、起きてから思い出せる夢となると、ほとんどなかった。
記憶が鮮明なのは身体が覚えているからである。暖かさ、そして身体のいたるところに残る密着感。夢の中で抱き合った証拠である。
しかも身体の一点が熱く、痛みまで残っている。違和感があって、歩く時に支障を来たしそうなのだ。
真理子は男性経験があった。
以前の夢を見たすぐ後だったように思う。好きで好きでたまらない相手だったわけではない。だが、衝動的な行動でなかったことも事実だ。
――なるべくしてなったことなんだわ――
言い聞かせていたが、後悔をしないためではない。その時の気持ちをなるべく忘れたくなかったからだ。
だが、思ったよりも意識が薄い。もっと気持ちが高ぶって、心の奥に大切にしまっておけるものだという意識があったのに、さりげなく過ぎてしまいそうな出来事に、一抹の寂しさがある。
後悔するのも嫌だが、意識が薄いのも寂しい。贅沢な悩みなのかも知れないが、それが女性なのだ。
少女が女性に変わる時、子供が大人に変わる時、その変化を意識したいと思っているのは、真理子だけではないだろう。
「でもね、皆意識することなく大人になっていくものなのよ」
そんな話を友達がしていたのをただ横で聞いていた。輪の中に入って聞いていたわけではないので、却って覚えていたのだ。
初めての男性とは長く付き合ったわけではない。付き合ったという意識もなく、ただお互いの身体を求め合った時期があったというだけで、恋愛としての感情があったのかどうか、今から考えると分からない。
――あれは違う自分だったんだわ――
一人になってみると、そう感じられた。
一人になって寂しさを感じたわけでもなく、生活のリズムが変わったわけでもない。寂しさを感じないから愛情がなかったと感じたわけではない。寂しさは初めて抱かれた時に意識が薄かったことの方が大きかったくらいだ。
朝からの散歩で、昨日と少し違っていたのは、ポン太がいつものようにヒモを引っ張っていないということだった。
疲れているのか、どうにも力が入っていない。いつものように、
「はぁはぁ」
と舌を出して息を吐いているわけでもない。
心なしか歩みもフラフラしているようにも見える。
「大丈夫?」
と声を掛けると、こちらを見上げて、
「く〜ん」
と甘えるような声ではあるが、どこか力がない。何かを訴えようとしているのかも知れない。
その日はゆっくり歩いていた。じっとポン太の様子を見ながらかなりゆっくり歩いていた。歩幅もそれほど広くなく、踏み出す足もゆっくりだった。視線はずっとポン太の背中に注がれて、目に焼きついてしまうほどだった。
だが、思ったよりも遠くまで来ているようだった。たまに頭を上げると、自分が想像していたよりも、はるか前まで来ているのだ。
下半身と上半身が別々に行動しているように思える。いつもは歩いている下半身だけが疲れるのに、その日はじっと下を見ているせいか、上半身も疲れている。頭を上げるのがきついくらいだ。
頭を上げて見上げた光景。最初はどこにいるのか分からなかった。気がつけば。公園が近くにあり、ポン太の視線のその先に、公園はいつものように存在していた。
その日、公園のベンチには湧き坂が座っていた。
「脇坂さん」
「やあ、散歩の途中だね?」
「ええ」
作品名:短編集59(過去作品) 作家名:森本晃次