短編集59(過去作品)
本当は走り出したいものをヒモをしっかり持っていることから、自分の意志で先に進むことはできない。いくら犬とはいえ、それくらいのことは分かっているだろう。それでも、
「ハァハァ」
と舌を出して苦しそうにしているのはなぜだろう。自分で自分を苦しめているのが犬にとっての苦痛ではないのだろうか。
ある意味犬は賢くて計算高いのかも知れない。人間と一緒にいれば情に訴えることもできるだろう。計算高いとまでは言い過ぎかも知れないが、犬としての本能で、飼い主を見る目が養われているのではないだろうか。真理子は時々ポン太を見ていてそんな風に感じる自分に気付いていた。
真理子は人に好かれるタイプではあったが、あまり自分から人を好きになるタイプではなかった。
――得な性格なのかも知れないわね――
人を好きになるから好かれるものだと思っていたのに、好かれるのはきっと自分の中に魅力があるからだと思うのも仕方のないことではないだろうか。
だが、どこに魅力があるのか分からないのは、あまり気持ちのいいものではない。好かれるには理由があるはずなのにそれが分からないと、どういう態度を取っていいのか分からない。
そのため物静かになってしまう。だが、まわりはそんな物静かな真理子に対して、謙虚さを見出していることだろう。
まわりを知らないと謙虚にもなる。謙虚な態度が相手に与える印象に悪いイメージを与えることはあまりないだろうが、それが魅力の一つになるのは、やはりその人の人徳とも言えるだろう。目立たない静かな女の子としての存在は、自分の中で根強いのも事実だった。
散歩の途中で公園に立ち寄る。住宅街の中にオアシスのように佇んでいる公園をいつも垣間見ていたが、たまに立ち寄ることもある。散歩にも時間が限られているので、あまり立ち寄らないが、散歩コースを短くしてでも立ち寄りたいと思うのは、足が痛くなった時か、少しストレスが溜まっている時だった。
公園のベンチに座ると、一気に汗が吹き出してくる。落ち着くまでに少し時間が掛かるが、落ち着いてしまうと、心地よい風を感じることができる。
ポン太がこちらを見つめている。
最初の頃は、途中で休憩することを嫌っていたポン太だったが、何度かベンチに座っていると、真理子の呼吸が整うまで、じっと座って待っている。
ポン太が真理子を見つめるのは、
「早く行こう」
という気持ちの表れではない。真理子と目が遭っても、立ち上がることもなく、お座りしたまま真理子を見上げているのだ。
尻尾を相変わらず振っている。そんなポン太を見ていると、次第に愚痴を零したくなってしまう。
「犬はいいわね。何も考えなくてもいいから」
その時々での思いを犬にだけ話している。高校生の女の子なのだから、男性を意識することもある。相手がどんな男性か分かっているつもりだが、話しかけられるほど大それたことができるわけではない。いつもじっと見つめているだけだが、男の子は真理子の視線に気付いているのだろうか。
――きっと気付いているわ――
バスケット部のキャプテン、絵に描いたような初恋である。完全な片想いで、話をしたことなどあるはずもない。
近寄ることさえおこがましい。遠くから見ているだけでいいのだ。
だが、たまに無性にそんな自分が嫌になる。
「何か話しかけなさいよ」
どこからか聞こえる声の主に覚えはない。自分の中にいるもう一人の自分の声かも知れないとも思ったが、それにしてもイメージが違う。
「あなたなの? ポン太」
まさかと思いながら、ポン太に声を掛けると、少し頭を傾げて不思議そうな顔をする。
――言葉が分かるのかしら――
不思議そうな顔をするということは、話し掛けた内容を理解していないとできない表情である。ひょっとして真理子が普段見せたことのない表情に不思議がっているのかも知れないが、それだけではないように思える。その後に見せる、
「ク〜ン」
という、甘えたような鳴き声が真理子の気持ちへ入り込もうとしているようだった。
もちろん、すべてが真理子の憶測に違いない。ポン太に話しかけて何かが起こるわけではない。自己満足の世界でしかないのだ。
だが、それでもよかった。話しかけられないのは、真理子の性格だけではなく、まだ成長期の不安定な精神状態だからだろう。落ち着いてくると、自然に感受性もさらに豊かになり、考えと行動が近づいてくるに違いない。
感受性という意味では、今の真理子はすべてが受身だった。成長期の中で精神的に不安定ではあるが、自分から行動することへの怖さを感じていた。下手に動いて失敗した時の後悔は、そのまま身体の変調をもたらすように思えた。
「女性って、強いんだけど、弱い時期をどのように過ごすかで、強くなれるか決まるのかも知れないわ」
学校で尊敬している保健の先生の話だった。
真理子は時々貧血を起こして、保健室へ通っていた。午後の授業を受けれずに、保健室のベッドで横になっていることもしばしばだった。
保健の先生はまだ二十代前半の女性で、白衣が凛々しく恰好いい。きっと他の男子教諭から人気があるに違いない。
その日も貧血を起こしたが、軽いものだったので一時間ほどで楽になったので、先生が話しかけてくれたのだった。
「どういうことですか?」
「女性が強い理由は、男性との一番の違いにあるのよ」
「子供を生むということですよね」
「そう。子供を生めるのは女性だけ。だから、女性は肉体的に男性より強いといわれるのよ。でも、精神が伴わないと不安定になりがちなのね。体力だけが先に行って、気力や精神力が伴わないと、ストレスになったりするものよ。女性は男性と違ってデリケートなもので、冷え性が多かったりするでしょう。それも精神的なものが伴っていないのも一つの原因じゃないかって思うの」
さすがに説得力がある。じっと聞き入っていた。
「それでね。成長期は男性よりも女性の方が成長の速度って早いのよね。肉体的にも変化が大きいし、だから精神的にも不安定になる。ある意味、一番精神的に弱い時期だって言えるんじゃないかしら」
「今の私くらいの?」
「そうね。でも、あなたが弱いと言っているわけじゃないのよ。中には何も感じることなく弱い時期を乗り越えて、気がつけば精神的にも強い女性になっている場合もある。それも持って生まれた性格でしょうね。羨ましい限りだけど、一握りの人なんじゃないかしら?」
「何も感じずに乗り越えられるのって、寂しかったりしませんか?」
今の自分が不安定なのは分かっている。不安定でありながら、絶えず何か期待しているものがあることは感じている。それが何なのかハッキリと分かっていないので、余計に何も考えずにいる人が寂しく見えるのだ。
「確かにそうだと思うけど、それを口にできるあなたもだいぶ弱い時期に慣れてきたようね。まずは慣れること。そして次第に気持ちに余裕が生まれてきて、そこから見えてくるものも増えてくるはずだわ」
褒められているのだろう。嬉しい気分になってきた。
余裕という言葉、確かに自分の中に現れてきている。
――でも、ハッキリとは分からないわ――
作品名:短編集59(過去作品) 作家名:森本晃次