短編集59(過去作品)
一. 一杯飲めば、一年
二. 二杯飲めば、十年
三. 三杯飲めば、死ぬまで生きられます
と、書かれている。
「ん?」
まるで禅問答のような文句に一瞬考えてしまったが、次の瞬間に吹き出してしまいそうな衝動に駆られたのを必死で堪えた。
「書いてある内容は一瞬考えさせられるもので、その後におかしさがこみ上げてくるでしょう? でも、これは至って真面目な気持ちで書いたものなんですよ。だから決して笑ってはいけない。それどころか、笑ってしまうとあまりいいことがないという言い伝えもあります」
「もし、俺が笑っていたら、どうだった?」
「笑うことはないと思いました。その証拠に吹き出しそうになったのを、堪えることができたでしょう?」
「そうだね。自分でもよく堪えられたと思うよ」
「ここで吹き出す人は性格的に決まっている人のようです。私もここで一瞬吹き出しそうになったけど吹き出さなかった。子供だったのに、本能的に吹き出せなかったと言った方が正解だったように思えるんですよ」
「そういえば、俺もそんな気がする。思わず吹き出しそうになったところまでは覚えているんだけど、吹き出すのをやめた時は、違和感がなかったんだ。普通だったら、無意識に流れでそのまま吹き出してしまうのにね」
「きっと、死ぬという言葉に反応したのかも知れないわね。死ぬという言葉と、生きるという言葉のどちらに意識が行くかで決まってしまうように思えるんです。でもあまりいいことが起きないというのも、ただの言い伝えですから、そこまで信憑性があるか分からないんですけどね」
生きるという言葉の方が、死ぬという言葉に比べて前向きである。だが、死ぬというのがすべての終わりではないという気持ちが三杯目の言葉に篭められているように思う。
「死ぬ」という言葉に反応したのは、そんな思いが無意識に芽生えたからだ。
――決してネガティブではないんだ――
という気持ちが吹き出しそうになった気持ちを真面目にしてしまう。
二人はそれぞれにひしゃくを持って水を汲み、ゆっくりと右から三杯目までを飲んだ。同じ水源であるにも関わらず、水のおいしさが若干違って感じられる。書いてあることもまんざらではない気がしてくるから不思議だった。
「今までにこの水を飲んだ人たちって、何人くらいいるんだろうね」
「何人なんでしょうね。ずっと昔から流れている水なんですよね。きっと永遠に流れていくんでしょうね」
当たり前の会話をしているのに、ここの水だけが特別な気持ちになってきた。三杯目を飲み干すと、
――本当に初めて飲んだのだろうか――
と思ったからだ。それを最初に感じたのが村田で、だから、今までにこの水を飲んだであろう人たちに思いを馳せていたのだ。
――どうして明美はここを俺に教えたのだろう――
村田は考えていた。明美が来てみたかったという気持ちに偽りはないだろうが、来ようと思えば一人でも来れたはずだ。何となく怖さがあったのか、それとも、ここに一緒に来る人は最初から決めていたのか、少なくとも明美にとって、念願が叶ったと言えるに違いない。
旅行が好きで、歴史的に価値のあるものには造詣の深いつもりでいた村田にも知らないところはたくさんある。しかし、そのすべてを知りたいとは思わない。
「どこか旅行した時にでも、ふとした弾みで誰かから聞くというのもいいものだ。それが旅の醍醐味につながるんだからね」
以前から考えていることだが、明美に話すと、無言で頷いていた。まさしく今回の旅行もその通りで、
――結婚相手を明美に選んでよかった――
と心から感じていた。
旅行から帰ってきて、またしても普段と変わらない毎日を迎えた。
結婚前ということで、気分的にはウキウキしたところもあるが、不安がないわけではない。心境的には複雑なのだが、そればかりを考えているわけにはいかず、なるべく考えないようにしていると、次第にウキウキした気分も不安も打ち消されていった。
――気持ちが中和されているのかも知れない――
正反対の心境が中和されるというのもおかしなものだ。確かにウキウキするから不安が募ってくるのだが、不安があるからウキウキした気分になるわけではない。双方向からの精神状態でもないのに、中和されるというのもおかしなものだ。
夏の暑さも一段落してきていたが、日差しはまだまだ強いものがあった。だが、セミの声も聞こえなくなってきていたし、昼間に公園のベンチで座っていても、それほど汗が滲み出ることもなかった。
昼休みに会社の近くにある食堂街はすぐにいっぱいになる。夏の間は食欲が湧かなかったので、食堂街へ行っても、ほとんど食べれずに辛かった。だが、今の時期になれば少々は食べれるのに、今度は食堂がいっぱいというのも皮肉なものだ。
仕方がないので、コンビニでパンと缶コーヒーを買って、公園のベンチに座って食べることにした。
入社当時は同期の連中数人と一緒に食べた公園のベンチであった。食堂だと上司がいたりして、好きな話もできなかったというのが本音で、要するに愚痴れなかったのだ。
その頃の仲間のほとんどは営業で、出先の支店に配属になった。本部に残っているのはほとんどおらず、残っていた人も、ここ数年でやめてしまって、村田一人になってしまった。
「寂しいものだな」
と感じながら、ベンチに座って当時を思い出していたが、皆で話をしている時でも村田は寡黙な方だった。
それでも聞き上手なのか、人の話を聞いているだけでも、自分が会話に参加していたような錯覚を覚えていた。発言がなくとも、誰かの発言が自分の意見と同じであれば、まるで自分が意見したかのように記憶に残っている。何とも都合のいい記憶力ではないだろうか。
「どんな話をしていたんだっけ」
当時を思い出しながら公園を見渡してみた。
公園にいるのはサラリーマン、OLはもちろんのこと、近くに予備校もあって、予備校生もいたりする。OL、サラリーマンは、制服やスーツ姿なのですぐに分かるが、予備校生は本当にラフな姿である。
顔を見ていると無精ひげを生やしたようなやつもいて、到底未成年には見えない人もいる。
「かなり長い間苦労しているんだろうな」
と感じるが、表情を見ていると、それほど苦労したように思えない。
「苦労を通り越したんだろうか」
見ていて複雑な心境だ。苦労を通り越して無の心境になったのであればいいのだが、マンネリ化してしまった人生を諦めてしまったのであれば、少し寂しさを感じる。何も感じなくなってしまった人間が衝動的な行動に出るのが恐ろしく感じる。感情が表に出ないのだから、普通に説得しようとしても聞き入れないに違いない。顔を見ていると、引き込まれそうになってくる自分が怖かった。
影が足元から伸びているのを意識して見るようになった。まだまだ太陽は高い位置にあるのに、足元から伸びる影は思ったよりも長く感じられる。しかも座って見ている角度からは、かなり濃い影に見えてくるのだ。形は歪で、不思議なことに、じっとしている人も影だけが蠢いているように見えていた。
作品名:短編集59(過去作品) 作家名:森本晃次