短編集59(過去作品)
会社ではさすがに役職という手前、年齢相応の気持ちである。だが、会社を離れると、気持ちはまだ若いと思っていた。
時々絵を描きに出かけることもあり、彼女と知り合ってからも一人の時間を大切にしていた。
むしろ人を意識するようになってから、余計に一人の時間が大切だと思うようになったのであって、時間の使い方がうまくなったのかも知れない。
結婚してからも、
「今度、一泊で絵を描きに行ってくるよ」
と馴染みの宿を予約して、一人出かけていった。
一度プロポーズしてから結婚までの婚約期間に、馴染みの宿に彼女を連れて行ったことがあった。
「ここが俺がいつも絵を描きに来ているところさ」
ここの旅館は絵を描くために利用しているが、最初の利用目的は違った。絵を描くのはついでだったのだ。
宿の女将も心得たもので、すぐに彼女を見て婚約者だと分かったようだ。まったくぎこちなさなどなかったからである。
「いいところね。羨ましいわ」
村田にとっては、プチ新婚旅行のつもりだったが、彼女にも同じ思いがあったかも知れない。それは前の世代の人たちの新婚旅行を思わせるもので、きっと自分たちの親、いや、その前の世代の新婚旅行は、きっとこんな宿での質素なものだったに違いない。
今でも老舗旅館としてやっているところは、本当に少なくなっただろう。景気の厳しさが人情を許してくれないだろうし、一時期のリゾート開発競争の煽りを食らった宿も少なくはないだろう。
「まるでタイムスリップしたみたいだわ」
と彼女はいうが、村田にとっては、懐かしさがこみ上げてくる場所だった。
小さい頃に泊まったという記憶はないのだが、宿の雰囲気にはどこか覚えがあるのだ。
同じような老舗旅館にしても、本当に小さい頃だったので、記憶の奥にあるだけで、引き出してもハッキリとした記憶ではない。それなのに、宿のまわりの光景までもが以前にどこかで見たことのある景色に思えてならなかった。
――夢で見たのかな――
夢というのも考えごとと同じで、時系列がハッキリとしない実にあやふやなものとして典型的なものである。ただ、夢の中で、
――いつか思い出すことがある――
というイメージがあったのも事実で、何となく狐につままれた気分であった。
絵を描いた後に、彼女がどうしても行ってみたいところがあるということだったので、一緒についていった。
「ここは小さい頃に母親と旅行した時に来たことがあるんですけど、面白いですよ」
老舗旅館は山間にあって、温泉の効能もあった。そこから一時間ほど電車で揺られたところに、明美が連れていってみたいと言っている場所があった。
海岸線を列車は走っていたが、すぐに山が迫ってきている。後ろを見ると断崖絶壁のようなところを走っていたが、村田にとっては初めての場所であった。
「自然の牙城という感じだね」
絵を描くには、こういうところも面白いかも知れないと感じていた。次第に列車は海岸線を離れて山間へと向っていく。
しかし、それほど海岸線を離れることもなく列車は目的の駅に到着した。駅はそれほど大きくなく、観光地というわけでもない。駅前にお情け程度に作られたロータリーにはタクシーはおろか、店もほとんどない。
正確にいえば、閉店しているという店が多い。お土産屋さんが一軒、食堂が一軒閉まっている。一軒だけ開いている店はお土産も売っていて、食事をすることもできる店であって、客が望めるわけでもなさそうだった。
「ここから確か歩いていったと思うんですよ」
明美が目指しているのは、神社だということだが、見渡してみると、神社がある雰囲気ではない。駅裏には木が生い茂った山があるが、その中にあるという。少し山道を歩かなければならないのはきつく感じたが、駅を降りてからそれほど暑さを感じないので、歩くのもいいかも知れない。
明美の後ろからただついていった。
やはり山に向って歩いているようで、少し息が切れ掛かるくらい歩いたところに参門が見える。
参道のまわりに見えている大きな木は杉の木で、以前大きな寺の参道を歩いた時にも大きな杉の木があったのを思い出した。霊験あらたかで、歴史的にも国宝級の神社だったので、杉の木も大きく感じられたが、どう逆立ちしても、そこかで有名な寺ではないはずの場所で見る杉の木が、見劣りしてしまうのも仕方がないことかも知れない。
歩いていくうちにどんどん涼しくなってくる。
セミの声もかすかに聞こえるが、それほど目立つものではない。歩いていくうちに、みるみる日が暗くなってくる気がしていたが、気のせいでもあるまい。境内が見えてくることには、杉の木の影を感じなくなっていた。
社務所を通り過ぎて、境内に入ると、目の前には大きなしめ縄が飾られているのに気がついた。
――どこかで見たような雰囲気だ――
そういえば、杉の木の記憶がある国宝級の神社を思わせた。あそこのしめ縄も全国有数の大きさを誇っていて、それこそ大きさが国宝級なのだ。この神社も、造りがほとんど一緒に見えるため、しめ縄の大きさも国宝級に見える。もちろん錯覚なのだろうが、思わず目をこすってみたくなった。
「坂戸神社に行かれたんですね?」
「ええ、思わず錯覚してしまいますね」
坂戸神社というのは、国宝級の神社の名前である。古代の天皇を奉っていることで有名なので、神社に造詣の深い人でなくとも名前くらいは知っているだろう。
「ここは、坂戸神社の枝社なんですよ。坂戸神社で奉られている人は有名なのですが、それにゆかりのある人ですね」
何か謂れがありそうだった。
「実は、あの時代にクーデターがあったらしいんですが、その時の首謀者を祭っているのがこの神社ということなんですよ。クーデターは未遂に終わったのですが、本当は坂戸神社に奉られている天皇が首謀者だったという噂があります。しかし、ここに奉られている人が、首謀者は自分だと言って名乗り出たので、天皇は汚名を着せられずに済んだとのことです。彼は結局島流しにあったんですが、その後に世の中が乱れたんです。原因は分かりませんが、当時の人の気持ちは一致していたんでしょうね。ここを造ることによって霊を収めようとしたんでしょう。でもそれが功を奏したのか、世の中が収まってきたそうです。それがこの神社の由来ですね」
「そのわりには、目立たないですね」
「どうしても逆賊の汚名がありますからね。元々が目立つことが嫌いな性格だったようなので、目立つと今度はよくないことが起こるという言い伝えもあるそうです。ですから、大きな神社でありながら、ひっそりとしているんですよ」
珍しいところに来た気分がして、それが却って新鮮だった。
お参りをすると、明美は境内の奥に入り込んでいく。
奥には側が流れていて、本当に小さな滝のようになっている。その奥に竹をくりぬいて作った三つの口があり、横にあるひしゃくで掬って、飲めるようになっているようだ。
飲料水と書かれたところに但し書きが書かれている。
「私が来たかったのはここなんですよ。小さい頃の記憶だけだったので、本当にここだったのか自信がなかったんですが、安心しました。一緒に飲んでみたかったんですよね」
但し書きには、
作品名:短編集59(過去作品) 作家名:森本晃次