ジャスティスへのレクイエム(第3部)
シュルツが思うよりもチャールズの方がその思いは強いようで、やはり人の気持ちが分かる人間の方が気持ちを強く持つことができるのかも知れない。そのことを知っていることから、シュルツはチャールズのことを今でも敬意を表し、「様」をつけて呼んでいるのだろう。
「国家元首って何なんだろう?」
たまにチャールズは口走るが、決してそれにシュルツは答えようとはしなかった。
チャーリア国には、民主国家から逃れてきた人も、実は少なくない。軍内部にもいるし、民間企業にもいる。チャーリア国はそんな人を差別的に扱うことをしない。キチンと受け入れる体制が社会的に整っていた。
チャーリア国自体が亡命国家であるということもあるが、民主国家から逃れてきた人が流れ込む率が高い。彼らは国際的な難民としての認定を受けているわけではない。難民となるには戦争などで家や財産を奪われたり、体制の違い等で国外退去を強制的に強いられた人だけに認定されるものだ。国際的に亡命者として扱われると、WPCの裁可により、亡命国を受け入れる体制を取っている国に対して順次振り分けられることになる。
もちろん、亡命受け入れに対してはWPCよりそれなりの金銭的援助と、受け入れ人数によって、WPC内での会議などでの発言力が増すという恩恵もあることから、亡命受け入れ国となる国も少なくなかった。
ただ、亡命者としての認定は誰もがなれるわけではなく、逃れてきた国が決まっていたり、WPCの容認できない体制を支持している人は亡命者として扱われない。さらに、民主国家から逃れてきた人を亡命者として受け入れることはあまりない。もちろん、戦争などが原因であれば亡命者としての認定も受けやすいのだが、それ以外での国外逃亡者へは難民認定は少なかった。
民主国家は、基本的に自由主義というイメージがある。自由な体制であるために、その中に埋もれる形で、犯罪者や犯罪グループが自由を背景に、自分たちの隠れ蓑として行動しているパターンも少なくない。実際に以前は民主国家からの亡命者を難民として認定していたが、後になって彼らが国際犯罪組織の構成員であるということが判明することが多かった。
「分かってからでは遅いんだ」
他国に逃れてしまえば、迂闊に捜査することもない。一度難民と認定されれば、彼らには難民としての権利が発生し、難民に対してはWPCと言えども、簡単に捜査の手を伸ばすことが困難になる。要するにWPCの勇み足で、無法者を野に放ってしまったのだ。
そんな教訓もあって、民主国家からの難民申請には、WPCは慎重になっている。次第に難民申請を受け入れない体制が出来上がってしまい、かといって放っておくわけにもいかず、彼らに対して特別待遇を模索する動きも見えてきた。
ただ、難民ではないので、亡命できたとしても、彼らには自由はない。亡命国から絶えず監視されるという状況で生活しなければならず、それを受け入れないと、WPCは公認しないということだった。
だが、WPCを経由することなく、国外退去した人が、他国に入り込んで生活している人もいる。生活水準は底辺ではあるが、本人はそれでもいいと思っている。
「前の国にいる頃よえいもよほどマシだ」
という人が多い。
彼らが民主国家から逃れてきたのは、差別を受け、貧困に喘いでしまったことから起こった亡命だった。
民主国家というのは、いたるところに自由という発想が渦巻いている。言論の自由、職業選択の自由など個人に与えられた自由とは別に、法人としての企業に与えられた自由も存在した。
時として法人と個人との間の自由の間で確執が存在し、どちらかが自由ではいられなくなる。立場としては当然法人の方が大きいので、個人の自由は迫害されてしまう。
民主国家は多数決が基本であることから、個人の意見が多数派に押し潰されることも少なくない。多数決という体制を背景にすると、当然生まれてくる発想は「弱肉強食」であった。
少数派が世間から嫌われてくると、次第に差別が始まってくる。個人はどうしても長いものには巻かれてしまうのだ。自分が少数派になることで世間から自分まで嫌われることを恐れる気持ちが強くなると、いかに多数派に属するかというのが、個人個人の死活問題となってくる。
弱者はどんどん弱くなってしまい、差別はどんどん広がってくる。世間の体裁は、
「差別はいけないことで、撲滅すべきものだ」
という建前を持っていて、差別をする人を時々問題にはしているが、差別する側にも人権が存在することで、なかなか罰することは難しい。
問題にすることはできても、罰することはできないのだ。
そんな中途半端な状態では、差別は広がってくるばかりだ。多数派が絶対的な力を有していることは、多数決の論理から証明されている。そんな民主国家が表向きに表している自由はあまりにもわざとらしい。
結局差別を受けた人間は、民主国家にいる以上、這い上がることはできない。彼らに残された道は、国外逃亡しかないのだ。
だが、民主国家は表向き、
「自由の国」
である。
自由の国は競争の国ともいえ、自由だから競争が生まれたのか、競争社会を平等に対応するための自由なのかの判断は難しいが、競争というのは、勝者がいれば敗者が存在するのだ。
勝者ばかりがもてはやされ、自由競争の良さとして宣伝されるが、敗者には何もない。マスコミが敗者もたまに取り上げるが、自由競争の中では、
「かわいそうだ」
という同情の目はあっても、救済という発想はない。
あったとしても、現実的ではないことは自由社会では忘れられていくのだ。
そんな敗者は差別を受けることになり、
「負け組」
としてのレッテルを貼られて、貼られてしまったレッテルと剥がすのは、そう簡単なことではない。
「一度貼られた差別を受けるというレッテルは、二度と剥がされることはない」
と言われる。
剥がされたとしても、それは一時期だけのことであって、すぐに剥がれたレッテルが復活してしまうのだ。
チャーリア国は、そんな難民たちを受け入れてきた。自由主義国家に危機感を感じているシュルツは、彼らを受け入れることで、自由主義による敗者の理論を考えることで、民主国家を毛嫌いするようになっていた。
「しょせんは口だけなんだよ」
と、珍しくシュルツは民主国家に対してだけは露骨に苦言を呈していた。
シュルツは、民主国家で差別を受けた連中を受け入れる国家体制を築きかけていた。WPCから認定を受けることができなくても、受け入れた彼らには十分な利用価値があると思ったのだ。
確かに彼らの才能は、チャーリア国の国民にはないものだった。毛嫌いしている民主国家から逃れてきた連中だという目もあったからで、それが贔屓目だったことは否めない。チャーリア国にとっての利益に繋がると感じたことは、シュルツは率先して行うようにしていた。
今まではその考えが間違っていたことはなかった。
「シュルツ長官には先見の明がある」
と言われていたが、確かにそうだった。
しかし、民主国家の難民もどきを受け入れるようになったシュルツに対しての国民の目は次第に冷めてきていた。
「チャーリア国は、一番の亡命先だ」
作品名:ジャスティスへのレクイエム(第3部) 作家名:森本晃次