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浜っ子人生・「架け橋」の人生ー英語と生きて60年

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 小学校の頃、皆の前で国語の本の朗読をさせられた事は度々あったが、子供達の前でしかも英語で喋る事などは思った事もなかった。Fさんに相談すると
「これもチャンスだから是非行って来い、ベタ書きの英語の原稿をベタ読みするのではなく、話したい事をメモの形にしてそれを喋れば良い」
と尻を叩いてくれた。その時フッと新渡戸稲造博士のお言葉が胸に浮かんだ。

「架け橋」そうだ、これも「架け橋」の一つではないかと思った時、
「よし、やってみよう!」
と気持ちが決まった。ある日、クラスに出かけた私は、「要するに下宿の家族の集い」の延長みたいなものだと思ったら、肩の荷がスーと下りた感じがし、先生と子供達を前にして30分喋ったのだが、それは英語のスピーチの初めての経験だった。
 たどたどしい英語だったが、子供達は目を輝かせて聞いてくれたし、矢継ぎ早の質問で私を戸惑わせた。だがこの経験は私の英語に新しい窓を開いてくれた。

 こうして広報の仕事を続けているうちに総領事が交代し、外交試験を通った所謂キャリアの人が赴任してきた。この人は一見ボーとしている感じがする人だったが、着任して暫く経ったころ、私を呼んで
「君は大学の経済学部卒なのになんで広報をやっているのだ、明日からは経済部の仕事をしろ」
と命じた。

 経済部は言わば役所の花形部門で、既に通産省から出向した領事が来ていたが、大変淡白な人柄で、
「英語は不得手なので宜しく頼む」
とお願いしてきた。こうして私の役所生活の唯一の「張りのある日々」が始まった。

 新領事の指示の元で私は先ず人コネの充実にとりかかった。連邦政府の経済省、漁業省などのBC州支局や州政府の関連官庁から始まり、BC電力会社、商工会議所、林業会議所や鉱業会議所等の先ずトップにコネを作ることから始めた。そして関係者には、トップから中間管理職迄、電話や面談を通してコネの強化や情報収集を繰り返してみた。
 今まで溜めてきた英語力を更に充実させる絶好のチャンスが次々と巡ってきた。総領事はあれこれと私に指示し今までにない人コネのネットワークを作り上げていった。

 おそらく経済部が最も充実した時代だったと今でも思っている。駐在商社の方々も今までの「役人に商売は分からない」と言う態度から、役所も広い情報ソースがあると言う事を認めて頂けた時代だった。総領事は私を商工会議所のメンバーにしてくれたし、中堅管理職の若い人達が経済専門協会を作ると言う情報を掴んできた時も、
「お前も会員になれ」
と尻を叩いた。

 私の英語力を信頼してくれた総領事は、私が全力を出せるように常に配慮してくれたのである。下宿のテレサおばさんが付けてくれた「ケリー」の名前も素晴らしい効果を挙げてくれた。こういう人達の中には私の英語について、
「You are truly a Canadian」
と最高の賛辞を惜しみなく与えてくれる人達もいた。

 この時代の私は、英会話だけではなく英作の力もコミュニケーションの経験もかなり増えてきていた。英語を使うと言うのではなく、私が英語に染まり始めたとも言える時代で、私や私の英語の力に絶対の信頼を置いて下さったこの新領事のご恩は、半世紀を過ぎた今でも言葉では言い尽くせない、私が心から尊敬する人だった。

 仕事をする中で、「うちの会社へ来てくれ」と言うような誘いも色々あった。しかし私には当時、この大恩を受けていた総領事の信頼を踏みにじるような事は断じて出来なかった。ご恩返しには全力で仕事をする事と私は心に誓っていたのである。69年に総領事が交代したと同時に私は役所を辞めたが、17年間の張り合いある役所人生はこうして過ぎて行った。

 日英両語を使ってビジネスの世界へ移る事は私の人生の大転換期だったが、私はこの変化に前向きに挑んだ。モントリオールに本社を置いている
コングロの極東支社を東京に開設し、次の三年間を今まで未知だったビジネスの世界に身を投じた。しかし、この東京支社は本社の倒産と共に消滅、私はカナダへ舞い戻る他なかった。四十半ばでの失業は楽ではなかった。
 
 その後、私は水産会社の現地法人に入った。生まれて初めての漁業・水産、私は魚の英語名から覚えなくてはならなかったが、決して重荷ではなかった。本社が合弁事業を始める時には、アラスカ、ミシシッピーへと会社の口となって複雑な交渉に参加した。1,976年、アメリカやカナダが二百海里法を制定、外国漁船の締め出しにかかった頃、現地法人は大日本水産会
(大水)の仕事も委託された。

 私は大水駐在員としてアンカレッジや米首都ワシントン等にも飛び、水産用語に不慣れな通訳さん達の手助けもした。更にこの現地法人が撤退すると直に次の水産会社が私を駐在員に採用、水産物の買い付けのほか、大水業務も引き続き担当した。

 大水駐在員として日本トロール底魚協会等業界団体のお手伝い、そしてオーストラリア、グリーンランド、デンマーク、果てはアフリカのナミビア等の国際会議に参加した。

 こうして商材の買い付けから漁船の出入港手続き、合弁事業関連交渉や漁獲枠取得交渉、更には国際会議に至るまで、私の知識と経験を十分に生かせる日々が続いた。私は通訳としての専門的な訓練を受けた事は無かったが、専門通訳さんたちと違ったのは、豊富な水産の知識、しかも実務経験を伴った豊かな知識だった。

 私の心に常にあったのは、1,960年にバンクーバーのブリティシュ・コロンビア大学内に出来た新渡戸記念公園内の碑に刻まれた博士の
「願わくば、われ太平洋の架け橋にならん」
と言うお言葉だった。この碑を始めて見たのは英語に挑み始めた頃で
「架け橋」と言うお言葉が強烈に心に残った。勿論、博士が意味されたのは日米関係と言う「大局的な観点」だった事は承知していた。

 この言葉に強く引かれたのは、英語をモノにすると言うことは、人の
「心の架け橋」を掛ける事だと私なりに解釈し自分を励ましたからでもある。正確さだけが求められる専門通訳だけでなく、企業や団体の利害の一端を担っていた私には、タスクの解決が最優先で、そのためには
「心の架け橋」を架ける事が何よりも必要だった。

「君のお陰で我が社の活路が拓けた」
と握手を求めてきたニュージランドの会社役員や
「貴方は当事者双方の心を素直に伝えられる通訳をするので、信頼している」
とカナダ漁業省の担当部長が握手を求めてきた事もあった。

 なぜ私が「心の架け橋」を架けられたのか、その理由の一つは、英語への挑戦をスタートした当初から、否応なしに自分を英語人の生活にどっぷり漬けた事だったと思う。本や学校で習った英語ではなく、日々の生活の中で、まさに肌で覚えた英語だったからではないかと思えてならない。

 六十年前、私の人生プランを砕いた大変化に対応して私は英語に挑んだ。私の人生を象徴するもの、そのものが英語になった。大富豪家や有名人になる等とは無縁の人生を歩んできている。私に言えることは、極めていくことの手ごたえを、感じる喜びを与えてくれるのが英語だと言う事である。そこにはこれで終わりだと言うサインは絶対に出てこない。