浜っ子人生・「架け橋」の人生ー英語と生きて60年
カナダに来てから六十年の歳月が過ぎた。
「まさかこの国にそんなに長く住むなど想像した事もなかったのに」
と、自分ながら驚いている。正に英語と共に生きて来た六十年だったし、私が生きている限り英語との闘いが続く事にも疑問の余地はない。
カナダに赴任した当時二十五歳だった私にも、私なりに描いていた夢があった。だが人生と言う道には、自分が思いもしなかった上りや下り、そして曲がり道や落とし穴があると言う事に気付くには、まだ暫く間があった。
中・高校時代、英語は一番苦手と言うより大嫌いな学科だった。その遠因は疎開先から生まれた町横浜へ戻り、小学校時代からの夢だった当時の神奈川県立一中学校(神中)へ転校できた日に遡る。
疎開先だった千葉県立一中では千葉市がいわば軍人の町だった事もあり、英語は敵性語と言うレッテルを貼られた時代でもあったことから、習ったのはアルファベットのA~Mまでの読み方だけ、あとは連日の軍事教練勤労動員に明け暮れていた。
ところがさすが横浜である。神中では英語の教科書もレッスン10まで進んでいた。黒板に書かれていたのは
「Write your name on the blackboard」
と言う短い文章、(勿論、どんな意味か、どう読むのか分からなかった)
運悪く先生が
「そこの新入生、読んでみろ」
と私に命じた。
A~Mまでしか読み方を知らない私に読める筈は無い。
「読めないのか、立っていろ」
と言われてしまった。
私は小学校時代、成績も操行も良く、級長、副級長を何度も勤め上げてきた。その小学校時代の同級生もいる教室で立たされたと言うのは、当時の私にとって計り知れない屈辱であり、「もう英語なんかやるものか」と心に決めた。
外務省の中級試験、さらには上級試験(所謂外交官試験)を目指す時、英語よりもフランス語の方にチャンスが多いと聞いていた私は、母校明大の隣にあったアテネ・フランセに入学、そしてフランス人の先生でフランス語だけの授業になる中級も既にパスしていた。当時はハリウッド映画の上っ面な華やかさに辟易し、その反発でフランス映画にどっぷり浸かっていたせいもあったろうが、その第一の理由はフランス語の音の美しさに惹かれたのである。
ナポレオンは、フランス語は「神の言葉」だと言ったそうだが、そう聞いても余り反発を感じないくらい、あの流れるような抑揚と微妙な発音とが織り成す美しい音色に、先ず私は魅せられメキメキ上達した。
昭和三十二年(1,957年)の11月、私は外務省からバンクーバーにある領事館(その後総領事館へと昇格)へ赴任が決まった。私を呼んだ人事課長は、「カナダは英仏両語が公用語だから、現地に行けば君のフランス語に磨きがかかる」
と付け加えた。
母や親戚そして友人たちに見送られ、希望に胸を膨らませながら、私は生まれて始めて飛行機に乗りバンクーバーへと向かった。機内アナウンスもあちこちの表示も全て英仏両語、
「ウン、人事課長が言ったとおりだ」
と期待に益々胸が膨らんだ。バンクーバー空港内の表示も同様で天にも上る心地がした。
空港には副領事が迎えに来てくれていた。彼の車に乗せてもらい領事公邸に向け走り出した時、私が最初に訊ねたのは
「バンクーバーにフランス語を話す人たちがいますか、彼らが住む集落はありますか?」
だった。副領事は一瞬怪訝な顔をしたが、
「話す人は殆どいないし、ましてやそんな集落はないよ」
と親切に答えてくれた。
この一言で私の今までの夢は一気に消し飛んだ。棍棒で背中をどやしつけられたようなショックを受け、頭の中が真っ白になった。副領事はそれからバンクーバーの事を色々と話してくれたが、私の耳には全く何も入ってこなかった。腑抜けのような私に副領事はきっと「おかしな奴だな」と思っただろう。
やがて公邸に着き領事夫婦に挨拶し今夜はそこに泊めてもらう事になったが、その後の夕食やら何やら、ともかく何を話したのか全く記憶に無い。きっと時差ボケと思われただろう。ベッドルームへ引き取って一人になると、色々な事が一度に沸いて来て、「もう現地へ来てしまった以上、現実を直視するほか無いが、ではこれからの三年間をどう過ごせば良いのだろう」と同じところをグルグル回っているうちに朝方になり、ようやく浅い眠りに落ちた。
領事館にいてもみすぼらしい下宿にいても、放心状態から容易に抜け出る事は出来なかった。だが、暫くたってから私は、「選択の余地は無い、思い切ってフランス語への執着を捨てて英語に望もう」と決心した。それからは夜学の語学学校を見つけ、アルファベットの発音からやり直し、又英国系カナダ人の下宿に移り、役所にいる間以外は英語しか通じない環境に自分を閉じ込めた。
こんな日々を重ねて半年、私の英語は日常生活や仕事にも事欠かないレベルに到達し、私の仕事も、英語が殆ど不要な文書などの官房事務から英語を使う広報部へと移った。
役所には本省から送られてくる綺麗な広報資料や16ミリ映画が倉庫に山積みになったままになっていた。使う時と言えば、偶に日本を訪れる州政府の役人とか、大手企業の社員などにお届けする程度、こちらから積極的に働き掛けるのが本来の広報の仕事なのに、完全な開店休業状態のままだった。私は州内の学校を対象にしようと考えた。
根強い日本人への偏見が未だにあちこちに残っていた当時、成人社会より次世代を担う子供達に正しく日本を知ってもらおうと思ったからだ。
私は先ず州の文部省に電話して、州内の学校のリストを送って欲しいと申し入れた。やがて送られてきたリストを手にして私はハタと困った。英語で話す力は確かに付いてきたが、英文の手紙を書く力は殆ど無い。フランス語に関する参考書は持ってきてはいたが、英語のそれはゼロ。役所には古ぼけた英文手紙の書き方などと言う本が一冊あるだけだ。ともかく和文の原稿を書いて英訳しようと悪戦苦闘が始まった。
その頃、役所に二世のFさんが入って来た。この人は戦前日本へ帰り慶応義塾に入ったが学徒動員で召集された。しかし運よく生き残りカナダへ戻ったと言う人であった。彼の書く英文は名文だと定評があった。タイプライターを前に悪戦苦闘している私に、
「日本的な構成文章はダメだ、要点を簡潔に書くことだ」
とアドバイスをしてくれた上、私が書き上げた原稿を見てくれて、それこそ情け容赦も無く訂正してくれた。それからも彼は何時も私の添削を続けてくれた。彼のこうした親身になってのアドバイスのお陰で、英語を話す事だけでなく書く力もつくようになり、それがその後の英語の人生に大きな力になった。
手紙の反応は凄かった。
「資料を送ってくれ、映画を借りたい」
等の要望が文字通り殺到し、資料の追加送付を本省に依頼したことも屡々で、情報局にいた大学の先輩から
「この頃のバンクーバーはどうなっているのだと噂がたっているぞ」
と言う手紙をもらった事もあった。資料の入手希望だけでなく、暫く経つとバンクーバーやその周辺の中・高校からクラスへ来て話して欲しいとの要望が来るようになった。
「まさかこの国にそんなに長く住むなど想像した事もなかったのに」
と、自分ながら驚いている。正に英語と共に生きて来た六十年だったし、私が生きている限り英語との闘いが続く事にも疑問の余地はない。
カナダに赴任した当時二十五歳だった私にも、私なりに描いていた夢があった。だが人生と言う道には、自分が思いもしなかった上りや下り、そして曲がり道や落とし穴があると言う事に気付くには、まだ暫く間があった。
中・高校時代、英語は一番苦手と言うより大嫌いな学科だった。その遠因は疎開先から生まれた町横浜へ戻り、小学校時代からの夢だった当時の神奈川県立一中学校(神中)へ転校できた日に遡る。
疎開先だった千葉県立一中では千葉市がいわば軍人の町だった事もあり、英語は敵性語と言うレッテルを貼られた時代でもあったことから、習ったのはアルファベットのA~Mまでの読み方だけ、あとは連日の軍事教練勤労動員に明け暮れていた。
ところがさすが横浜である。神中では英語の教科書もレッスン10まで進んでいた。黒板に書かれていたのは
「Write your name on the blackboard」
と言う短い文章、(勿論、どんな意味か、どう読むのか分からなかった)
運悪く先生が
「そこの新入生、読んでみろ」
と私に命じた。
A~Mまでしか読み方を知らない私に読める筈は無い。
「読めないのか、立っていろ」
と言われてしまった。
私は小学校時代、成績も操行も良く、級長、副級長を何度も勤め上げてきた。その小学校時代の同級生もいる教室で立たされたと言うのは、当時の私にとって計り知れない屈辱であり、「もう英語なんかやるものか」と心に決めた。
外務省の中級試験、さらには上級試験(所謂外交官試験)を目指す時、英語よりもフランス語の方にチャンスが多いと聞いていた私は、母校明大の隣にあったアテネ・フランセに入学、そしてフランス人の先生でフランス語だけの授業になる中級も既にパスしていた。当時はハリウッド映画の上っ面な華やかさに辟易し、その反発でフランス映画にどっぷり浸かっていたせいもあったろうが、その第一の理由はフランス語の音の美しさに惹かれたのである。
ナポレオンは、フランス語は「神の言葉」だと言ったそうだが、そう聞いても余り反発を感じないくらい、あの流れるような抑揚と微妙な発音とが織り成す美しい音色に、先ず私は魅せられメキメキ上達した。
昭和三十二年(1,957年)の11月、私は外務省からバンクーバーにある領事館(その後総領事館へと昇格)へ赴任が決まった。私を呼んだ人事課長は、「カナダは英仏両語が公用語だから、現地に行けば君のフランス語に磨きがかかる」
と付け加えた。
母や親戚そして友人たちに見送られ、希望に胸を膨らませながら、私は生まれて始めて飛行機に乗りバンクーバーへと向かった。機内アナウンスもあちこちの表示も全て英仏両語、
「ウン、人事課長が言ったとおりだ」
と期待に益々胸が膨らんだ。バンクーバー空港内の表示も同様で天にも上る心地がした。
空港には副領事が迎えに来てくれていた。彼の車に乗せてもらい領事公邸に向け走り出した時、私が最初に訊ねたのは
「バンクーバーにフランス語を話す人たちがいますか、彼らが住む集落はありますか?」
だった。副領事は一瞬怪訝な顔をしたが、
「話す人は殆どいないし、ましてやそんな集落はないよ」
と親切に答えてくれた。
この一言で私の今までの夢は一気に消し飛んだ。棍棒で背中をどやしつけられたようなショックを受け、頭の中が真っ白になった。副領事はそれからバンクーバーの事を色々と話してくれたが、私の耳には全く何も入ってこなかった。腑抜けのような私に副領事はきっと「おかしな奴だな」と思っただろう。
やがて公邸に着き領事夫婦に挨拶し今夜はそこに泊めてもらう事になったが、その後の夕食やら何やら、ともかく何を話したのか全く記憶に無い。きっと時差ボケと思われただろう。ベッドルームへ引き取って一人になると、色々な事が一度に沸いて来て、「もう現地へ来てしまった以上、現実を直視するほか無いが、ではこれからの三年間をどう過ごせば良いのだろう」と同じところをグルグル回っているうちに朝方になり、ようやく浅い眠りに落ちた。
領事館にいてもみすぼらしい下宿にいても、放心状態から容易に抜け出る事は出来なかった。だが、暫くたってから私は、「選択の余地は無い、思い切ってフランス語への執着を捨てて英語に望もう」と決心した。それからは夜学の語学学校を見つけ、アルファベットの発音からやり直し、又英国系カナダ人の下宿に移り、役所にいる間以外は英語しか通じない環境に自分を閉じ込めた。
こんな日々を重ねて半年、私の英語は日常生活や仕事にも事欠かないレベルに到達し、私の仕事も、英語が殆ど不要な文書などの官房事務から英語を使う広報部へと移った。
役所には本省から送られてくる綺麗な広報資料や16ミリ映画が倉庫に山積みになったままになっていた。使う時と言えば、偶に日本を訪れる州政府の役人とか、大手企業の社員などにお届けする程度、こちらから積極的に働き掛けるのが本来の広報の仕事なのに、完全な開店休業状態のままだった。私は州内の学校を対象にしようと考えた。
根強い日本人への偏見が未だにあちこちに残っていた当時、成人社会より次世代を担う子供達に正しく日本を知ってもらおうと思ったからだ。
私は先ず州の文部省に電話して、州内の学校のリストを送って欲しいと申し入れた。やがて送られてきたリストを手にして私はハタと困った。英語で話す力は確かに付いてきたが、英文の手紙を書く力は殆ど無い。フランス語に関する参考書は持ってきてはいたが、英語のそれはゼロ。役所には古ぼけた英文手紙の書き方などと言う本が一冊あるだけだ。ともかく和文の原稿を書いて英訳しようと悪戦苦闘が始まった。
その頃、役所に二世のFさんが入って来た。この人は戦前日本へ帰り慶応義塾に入ったが学徒動員で召集された。しかし運よく生き残りカナダへ戻ったと言う人であった。彼の書く英文は名文だと定評があった。タイプライターを前に悪戦苦闘している私に、
「日本的な構成文章はダメだ、要点を簡潔に書くことだ」
とアドバイスをしてくれた上、私が書き上げた原稿を見てくれて、それこそ情け容赦も無く訂正してくれた。それからも彼は何時も私の添削を続けてくれた。彼のこうした親身になってのアドバイスのお陰で、英語を話す事だけでなく書く力もつくようになり、それがその後の英語の人生に大きな力になった。
手紙の反応は凄かった。
「資料を送ってくれ、映画を借りたい」
等の要望が文字通り殺到し、資料の追加送付を本省に依頼したことも屡々で、情報局にいた大学の先輩から
「この頃のバンクーバーはどうなっているのだと噂がたっているぞ」
と言う手紙をもらった事もあった。資料の入手希望だけでなく、暫く経つとバンクーバーやその周辺の中・高校からクラスへ来て話して欲しいとの要望が来るようになった。
作品名:浜っ子人生・「架け橋」の人生ー英語と生きて60年 作家名:栗田 清