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短編集58(過去作品)

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 桜井は潮風が苦手だった。小さい頃から潮風に当たると発熱していたからだ。湿気と塩辛さの微妙なコントラストが身体の毛穴を塞いで、空気が入らないようにしていたことを意識していたからだ。
 それなのに、なぜ冬の海になんて行ったのか、思い出したくない記憶だったからだ。
 一緒に行ったのは父親だった。いつも仕事で忙しい父親とどこかに出かけるなど、ほとんどなかった少年時代なのに、あまり記憶としては嬉しい記憶ではない。
 車で出かけたのだが、車の中での父親はまったく口を利かなかった。あまりの迫力に、助手席に座ったまま、ほとんど前しか見ていなかったが、トンネルに入った時だけ、父親の顔を覗き見た。
 黄色いランプのトンネルの中での父親の横顔は、まさに宇宙人を見ているかのようで、冷たさしか感じることができなかった。トンネルの中にいるから冷たい表情に見えるのか、本当に表情が冷たいのかは、子供では判断できない。
 トンネルを抜けて、その答えが後者であるのが怖くて、とうとう目的地に着くまで顔を見ることができなかった。
「さあ、降りよう」
 冬の海、そこには誰もいなかった。夏であれば海水浴客で賑わうであろう場所なのは、砂浜の奥に並んでいる冬の時期で閉鎖している海の家を見つけたからだ。
 とても夏の賑やかな光景など想像もつかない。強い風に煽られて締め切ってあったはずの扉がバタンバタンと音を立てながら揺れている、近くに寄れば蝶つがいが錆び付いているためにギーという音が聞こえることも想像がついた。
――どうして僕は寂れた光景だけは、すぐに想像できてしまうのだろう――
 と感じた。それは今に至るまで変わっていないが、そのことを感じたのは、父親と一緒に海に行ったまさにその日だったはずである。
 冬の海にどれだけ長い時間いたのか分からない。しかし、その時は不思議と身体が悪くはならなかった。発熱もなかったし、気持ち悪くもならなかった。
――きっと気温も影響しているんだろうな――
 さらに感じたのは緊張感である。父親に感じた異様な迫力、鬼気迫る雰囲気とはまさしくその時のことをいうのだろう。海辺を歩きながらどこかの家に行った気がしたのだが、覚えているのはそこにいた一人の女の子だった。
 同じくらいの歳だったが、彼女の方がよほど大人に思えた。元々初対面の人には怖気づいてしまうところがあり、相手が大きく見えてしまう。その時もそうだった。
「近くで遊びましょう」
 そう言って、桜井は父親と、女の子のお母さんを残し、女の子と散歩に出かけた。
 なるべく海から遠いところにしてほしいと思っていたが、桜井のそんな気持ちを最初から察していたのか、海に近づくことはなかった。
「私、海の近くに住んでいるんだけど、海は苦手なの。潮風が苦手なので、夏になると、夜遅くなるまで、友達のところに行っていることが多いのよ」
「あ、僕も潮風苦手なんだ。そのことをお母さんは知っているの?」
 奇遇といえば奇遇だが、子供がそこまで苦手なものを母親としては、見ていて黙っているのも不思議に思えた。
「いえ、お母さんは知らないわ。でも、気付いているかも知れないわね。でも、気付いていてもうちは貧乏だから、お引越しもできないのよ」
 と、寂しそうな顔をする。
 思わず話題を変えたのを覚えているのだが、会話の内容で覚えているのは、それだけだった。
 散歩から帰ってくると、父親の表情はいつもの顔に変わっていた。女の子にも優しく声を掛けていて、いつもの父に戻っていた。それが嬉しかった。
 それまで、父親がどんな表情だったかということさえ忘れてしまうほどで、いったい、その間に何があったのか、子供心に詮索は許されないことを悟っていた。
 もしそれまでの父親の表情を尾乱せるとすれば、トンネルの中で見た不気味な横顔だけである。今でも思い出すことができるが、あんな顔は後にも先にもあの時だけだった。
 夜道を歩いていて、足元から伸びる影を見て、不気味に感じる時、父親の横顔が脳裏をよぎる。それはいつもであって、思い出そうとして思い出しているのではなく、潜在意識が記憶を呼び起こしているようだ。
 坂道を下って少し歩いていると、後ろから乾いた革靴の音が聞こえてきた。一番怖いと思っているか湧いた革靴の音である。
 音の感じからすればハイヒールであろうか。そうであれば女性に違いない。女性だと分かればそれほど怖くないはずなのに、胸の鼓動は激しくなるばかり、後ろを振り向く勇気もない。
 何と言っても塀に囲まれた場所である。前に進むしかないのだが、靴音は自分の歩く歩幅とほぼ同時に聞こえていることから後ろの人が桜井を意識しているように思えてならない。
 思い過ごしなのかも知れない。考えすぎるのは桜井の悪いくせだ。だが、トラウマとなって残ってしまった革靴の乾いた音、この恐怖を逃れることはできなかった。
 恐怖心を掻きたてられると、いつも過去のことを思い出してしまう。過去のことがすべて恐怖に繋がることではないことは分かっているのだが、それが近い過去であっても、遠い過去であっても、記憶の中では昔の感覚だとは思えない。それは夢の感覚に似ている。
 見た夢の内容が学生時代の夢だったとして、主人公である夢に出てくる自分は、もちろん学生である。しかし、夢を見ている自分が社会人であれば、どこかで自分が社会人という意識があるために、出てくる友達は社会人になっていて、自分だけが学生だと思っているようなへんてこな夢になることがある。
 逆もある。まわり皆が学生なのに、自分だけが学生でありながら仕事を持っているという感覚であるが、どちらかというと桜井の夢の傾向としては、前者の方が多いように思える。夢の中の自分と、夢を見ている自分とを潜在意識の中で分けているからなのかも知れない。
 小さい頃から乾いた革靴の音は怖かったのだが、いつからこれほど怖くなったのか、ハッキリとは覚えていない。しかし、ある時出張に出かけて、その時に感じた気持ち悪さは、以前にも感じたことのあるものだった。それが、靴音をトラウマとして記憶の奥に封印させてしまった要因になっていることは意識の中であった。
 あれは、金沢に出張に出かけた時だった。
 まだ雪の季節には早かったが、木枯らしが吹いてきそうな寒い夜だったのを覚えている。午前中に金沢に入り、午後は訪問先を数件まわり、夜、営業所の接待を受けた。
 接待といっても、食事に行く程度のもので、時間にして二時間くらいのものだったか、午後九時にはビジネスホテルに帰ってきていた。
 酔いは少しだけ残っていたが、ほろ酔い気分くらいであった。寒いとは思ったが、少し厚着をしていけば、夜の街を歩く分には差し支えないと思われた。酔いを覚ますのが一番の目的だった。
 宿の人に聞いてみれば、近くに十一時までやっている喫茶店があるという。大正時代の名残を残した情緒ある喫茶店だということで、そういえば、宿の近くには大正ロマンを残す街並みが残っている。
 昼間では味わうことのできない大正ロマンを味わってみたいというのもあって、コートにマフラーと、防寒対策もバッチリして出かけた。宿の裏に回れば、思っていたとおりの大正ロマンが広がっている。
作品名:短編集58(過去作品) 作家名:森本晃次