短編集58(過去作品)
「部活で遅くなると、どうしても暗い時間に帰ることになるだろう? 一号館から正門までの間が、却って気持ち悪いんだ。何といっても一番不気味なのは一号館だけど、その影を感じながら銀杏並木を歩いていると、寒気を感じることがあったね。そういう意味でも私にとって銀杏並木は学生時代で一番思い出の深い場所になるんだ」
桜井には日が落ちてからの銀杏並木の気配を知らない。夕方、まだ人通りが多い中、一号館から正門に向かって帰っていくのがほとんどだったのだが、桜井には違う意味で銀杏並木が印象的だった。
友達と帰ることもあったが、一人で歩いていることも多かった。その時間帯というのは、銀杏並木の間から西日が差し込む時間で、思い出すのは、なぜか秋から冬にかけての時期だけだった。
西日が風に揺れる銀杏の葉の間から差し込んでくる。すでに寒くなりかけている時間帯なので、風もそれなりに冷たさがあった。
いつも身体に気だるさを感じていたように思える。足にむくみのようなものを感じていたが、嫌な疲れではなかった。
遠くからサックスの練習している音が聞こえる。ブラスバンド部の人たちがグラウンドにあるスタンドで練習をしているのだ。
きっとグラウンドでは体育会系の練習が行われているだろう。いくら練習とはいえ、あまり上手とはいえない演奏で、
――やる気を削がれないだろうか――
と勝手に想像しているのは、自分に感じる気だるさの原因の一旦が、そのへたくそな演奏にあると自覚していたからだろう。
したがって、桜井の中での銀杏並木に対する印象は、
――気だるさを感じながら歩いた――
というものである。寒さを感じながらではあったが、気だるさを感じた瞬間、麻痺してしまったかのようである。寒いはずなのに、差し込んでくる西日が、暖かさを感じさせ、まるで縁側で日向ぼっこをしているように感じさせられるのだ。日没まではそれから一時間かそこらではなかったろうか。たったそれだけの短い時間の違いで、同じ場所なのに、これほどまでに感じ方が違うというのは、感じる人間が違うということだけで片付けられない何かがあるように思えてならない。「銀杏並木」のマスターの話を聞きながら、桜井はいろいろ思いを巡らせていた。
友人の家へ向いながら、緩やかな坂を下りている時に思い出していたが、今さらながらオーナーの言っていた話が分かったような気がする。しかし、印象として感じるだけで、頭の中は、いつも自分が感じていた夕方の気だるい時間帯でしかない。したがって、あくまでも印象でしかオーナーの話を感じることはできなかった。
坂道を下りながら思い出すのは、以前映画で見たワンシーンだった。
ホラーっぽい内容で、雨がシトシトと降る中を傘を差しながら歩いている女性を後ろから追いかけている男性のシーンだった。
男にとっては初めての道、知り合いのところに遊びに行って、駅までの帰り道だった。正確には往路と復路の違いだけなのだが、彼にとっては初めての道も同じ、
――見る方向が違えば違うものだ――
という考えが男にはあった。
女性との距離は開くこともなく狭まることもなかった。水飛沫を上げながらの靴音は一つしか響いていない。
男性はスラリと背が高く、スリムな感じであるが、女性は小柄で、ポッチャリ系である。音が重なるほど同じタイミングで足を踏み出しているにも関わらず、距離が狭まることがないというのはおかしなものだった。
男は意識して歩調を変えてみる。しかし、音はやはり一つしか聞こえない。
一直線で、曲がる角もないところを歩いていると思ったら、急に女性の姿が見えなくなっていた。気がつけば角のあるところまで出てきていて、そこを女性が曲がったのだ。
男も急いで角を曲がった。すると、そこは見覚えがある道だった。つい先ほど見た道、つまり、駅から友達の家まで行く時に見た道であった。
――あれ? グルリと回って、反対に出てしまったのかな――
と感じ、完全に方向感覚を失ってしまった。
目の前を歩いていたはずの女性は、すでに視界から消えていて、消えてしまったことよりも、目の前に広がっている世界が、自分の感覚を超越した世界に見え、不思議な時空に入り込んでしまったような錯覚で立ちすくんでいた。
映像であっても、文章であっても、その時に感じた男の心境を表現するのは難しい。映像で分かりにくいところがあったので、原作を買って読んでみたが、いまいち要領を得なかった。
しかし、そのシチュエーションだけは頭に残っていた。
――最初に本を読んでいればよかったかも知れないな――
あくまでもインスピレーションを生かすことを前提にしなければ、このイリュージョンの世界を理解するのは困難である。
本を読んでまず自分のインスピレーションに訴える。そこで導き出された想像力が、頭の中で映像化される。
だが、そこまで来て映画を見れば物足りなく感じるかも知れない。それだけイリュージョンを世界を映像にするのは難しい。
ある程度まで想像できる話を映像化すれば、きっと原作よりさらにリアルな描写が期待できるだろうが、作家の頭の中にあるインスピレーションがそのまま映像になって出来上がってくるとも言えない。ホラー作家の中には、映像化されることを嫌う人もいるのではないかと感じる桜井だった。
インスピレーションを思い浮かべるには、それぞれにアイテムがいるのかも知れない。
月明かりであったり、影であったり、靴音であったり、何かに集中して考えることで、描写がさらに克明になってくる。しかし、作家のインスピレーションの意図が明確でなければ、分かりにくい作品になってしまう。
――それを感性というのだろう――
芸術にあまり造詣が深いわけではないが、画家にしても作家にしても、描写を感性として描くことは共通のテーマに違いない。
そんなことを考えながら坂を下っていくと、角が見えてくる。友人が教えてくれたとおりの道だった。
克明に教えてくれたわけではないが、電話の内容をメモに書いて、それを自分なりの地図にして作り上げる。
駅を降りた瞬間から、桜井の想像は始まった。
駅前の坂道は想像どおりだった。緩やかで、その先に見える住宅街の明かりが点在しているが、明かりの数はまばらである。
――まだまだこのあたりの土地は売れていないんだな――
駅を降りる客もそれほどいなかったことからも、想像できることだった。
真っ暗なくせに、空の色は純粋な真っ黒ではない。どこかグレーが入っていて、それが雲の形に見えるのはすぐに分かった。
以前にも同じことを感じたことがある。グレーの空を見ると、雲の形だと思うのは、小さい頃の記憶がそうさせるのだった。
あれは、海に行った時のことだった。
さすが海沿い、風が強く、湿気を帯びているので、生暖かい風である。
海水浴に行ったわけでもない。誰もいない砂浜で、今にも雨が降ってきそうな気持ち悪い天気だった。
雲が急いで流れていく。流れに沿って靡く波の高さは、後にも先にもあの時以上のものはないであろう。
潮の匂いを感じるが、風の強さのために生臭さしか感じない。湿気を帯びているために、身体にベタベタとへばりついてくる。
作品名:短編集58(過去作品) 作家名:森本晃次