短編集58(過去作品)
背後の靴音
背後の靴音
悩みのない人間なんて、果たしているだろうか? そんなことすら考えるのは気持ちが心細くなっている証拠ではないかと感じる桜井だった。
桜井にも悩みはあるが、どこからが悩みなのか分からなくなっている。間隔が麻痺して来ているように思えるほどで、小さなことまで悩みだと思ってしまえば、悩みだらけの人間に思え、小さなことを気にしなければ、悩みなんてないように感じる。
要するに気の持ちようなのだろうが、そこまで感じるまでに、人間ができているわけではなかった。
何かを考えていると、自分がどこにいるのか分からなくなることがある。どこから来たのか、どこに行こうとしているのか、そして、どこを歩いているのかである。
それは桜井だけに限ったことではないだろうが、時々、
――あれ? この道は初めてではないように思うな――
初めての道のはずなのに、過去にも歩いたことがあると思えるような気がするそんな道、いわゆる「デジャブー現象」と呼ばれるものである。
デジャブー現象と、前世の記憶をリンクさせたがる人がいるが、桜井はそこまで大袈裟には考えていない。考えごとをしながら歩いていた時に、意識として残っていなくても記憶として残っていたのならば、それが無意識に記憶の奥の封印が解けることがあるという考え方である。
特に感じるのは、夜道を歩いている時である。月明かりが照らし出す影を見つめながら歩いていることの多い桜井は、自分の足元から伸びる影を意識している。すると、月明かりだけではなく街灯によってできる影が放射状になって、いくつもの分身ができているのだが、歩いているうちに、それらが足元を中心にクルクルと回り始める。意識しないでいられようものか。
だが、月明かりによる影だけは他のものとは明らかに違う。明るさがあるためか、影が濃くなっている。しかも、街灯のように近くから照らしているわけではないので、伸びている影が回ったり、長さが変わったりすることはない。ずっと自分を見つけているように思えてくる。
前に影がある時はまだいいのだが、正面から当たる月明かりで影が自分より後ろにできた時は少し不気味である。なるべく気にしないようにしていても気持ち悪さを感じる。背筋に冷たいものを感じるのだ。
「夜道が不気味で怖い」
と言っている人の話をよく聞くが、どうしてなのかあまりよく分からなかった。桜井は明らかに自分の影に怯えているのだが、他の人が自分の影を意識しているとは思えない。自分の影の意識さえなければ、それほど夜道を怖いものだとは思わない桜井だけに、そう感じるのだ。
――ひょっとして、怖いと思っている次元が違うのかも知れない――
何をもって怖いというのかという次元は、夜道だけに限らない。テレビ番組を見ていて、同じように怖いと思っていても、一緒に見ている人が同じところに恐怖を感じているとは考えづらい。桜井の場合は、自分が子供の頃に感じた怖いものを大人になって思い出して怖く感じるのだ。誰だってそうかも知れない。
それぞれまったく違った少年時代を過ごしてきているので、同じ体験からということはありえないだろう。世間一般に怖いところがあったとしても、それぞれで環境が違えば怖さの度合いも違ってくる。それくらいのことは桜井にも分かっていた。
夜道を歩いていて、怖いと感じるのは、革靴の音が聞こえてくる時だった。
「カツッカツッ」
乾いた革靴の音が満月に響いている。車がやっと離合できるくらいの道で、中央線はおろか、歩道もはっきりとはしていない。しかし、道の両脇にはコンクリートでできた塀が続いており、前と後ろ以外を意識することができないところである。
昼間歩く時よりも、きっと道が広いと感じているだろう。初めて歩く道であったが、そんな気がしたのは、以前にも歩いたことがあるような気がしたからだ。
その日、友人が引っ越したというので、酒を持って出かけていくところだった。夜の八時には帰っているということだったので、桜井も一度家に帰り、支度をして出かけてきたのだ。
桜井の家の近くの駅から三駅ほど電車に乗って、降りた駅から歩いて十五分、新興住宅地として開拓され始めたところなので、そのうちに乗降客も増えるだろうが、今はまだそれほど乗降客の多い駅ではない。
駅前は、美容院の明かりが目立つだけで、ほとんどの店が閉まっている。スーパーも少し入り込んだところにしかなく、銀行やタバコ屋があるだけで、駅前だけを見れば寂れた街にしか思えない。
「これからの街だからな」
と友人は言っていたが、実際にはこの駅が最寄の学校もあって、本当であればもう少し賑やかであったもいいはずだ。
「昔はもう少し賑やかだったんだ。だけど、近くにバイパスができて、ほとんどの店がそっちに移っちゃったんだな。これじゃあ、商売にもならないってね」
という嘆きが聞こえてくるらしい。
友人の家までは駅を降りてから最初に坂を下りて行くことになる。駅自体が小高い丘の上にあるが、坂はあまり急ではなく、なだらかになったその先には、大通りがあった。
街灯もまばらであったが、坂を下りていくと、枯れ葉が舞っているのに気がついた。どうやら銀杏並木のようで、夜暗くとも、末広がりになった黄色い葉っぱは目立っていたっけ。
――まるでキャンパス通りみたいだな――
自分が通っていた大学を思い出していた。大学も正門を入って、一号館と呼ばれる一番古い建物まで緩やかな坂を上がっていくようになっていて、秋ともなれば銀杏の葉が舞っていた。
大学の近くに銀杏並木という名の喫茶店があった。コーヒーにケーキがおいしく、女の子には人気のお店だった。店のオーナーは大学のOBで、
「私はテニスサークルに所属していたんですが、テニスコートを持っている時、一番銀杏並木を通るのが嬉しかったですね。そして、銀杏並木を上りながら、テニスコートを小脇に抱えて歩く女性の後姿が忘れられないんですよ」
「マスターも好きですね」
と誰かが茶化すと、
「えへへ、その後姿に魅せられて、テニスサークルに入ったようなものですからね」
大学のテニスサークルというと、毎年たくさんできては、たくさん消えていく。発起人が卒業すればなくなってしまうようなサークルも少なくなく、マスターは卒業してから十年は過ぎているという話である。
「結構、練習も真面目にやっていて、合宿なども厳しかったですよ」
というとおり、サークルの中では厳しい部類に入っているようだ。
名前は「イリュージョン」、幻想的な名前であるが、実情は厳しいサークルのようだった。今でこそ女性部員も増えたが、マスターが所属していた頃は、まだまだ男性部員が多かったようだ。逆に女性が男性に混じって一緒にメニューをこなさなければいけない状況だったので、女性もそれなりに厳しい覚悟を持っていないといけなかったようである。
作品名:短編集58(過去作品) 作家名:森本晃次