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短編集58(過去作品)

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 双方向からのイメージを感じることの苦手な井上には、友達との会話は苦手だった。自分の意見を言うことができても、相手の意見を噛み砕いて自分の意見に組み込むことがどうしてもできないのではないかと思ったからである。
 しかも自分の性格について、やっと確立することができて、確立できた性格は揺るぎのないものであった。
 誰からも否定されたくないという思いと、人と比較できるものではないという思いとが交錯して、人見知りを起こすのではないだろうか。相手から話しかけられれば応対することはできるかも知れないが、それもどこまでできるかは分からない。
 人から話しかけてこられると、きっと主導権は自分にあると思うからであろう。話しかける方はあくまでも主導権を相手に渡すことはうまく会話できる秘訣ではないかと思っていた。
 それは間違いではないだろう。相手に主導権を渡すのが怖かった。だから自分から話しかけない。自分から話しかけないと、相手からも話しかけてこない。それは仕方のないことだろう。そうなると話す相手もいなくなり、そのうちに気がつけば孤独感に襲われることになってしまう。
 高校に入った頃から、徐々に友達が増えてきた。
 人見知りすることで、相手も自分への警戒心を持ってしまうからであって、自分が他人に好奇心を抱くと、まわりも自分へ興味を抱いてくれる。そんなことに気付いたからだ。
 よく見ていると、自分が興味を示す人間は、性格的に似ている人が多い。それもさらに見ていると、自分の性格とも似ているではないか。
 自分がどんな正確化ということは一口では説明できないが、友達を客観的に見ていると、何となく説明できるように思える、もちろん、友達にそんなことは話さないが、
「やっぱり気が合う人が自然と惹き合うものなんだろうね」
 というくらいの話はしている。
 そう言われて嫌がる人はまずいない。井上自身もそう言われればきっと、
――この人と友達になってよかったな――
 と思うに違いない。
 なぜなら本当に気が合うと思っているから友達になったのであって、以心伝心を感じるからに違いない。
 怯えを感じるのは小学生からのくせなのかも知れない。
 何かがあってそれがトラウマになっているわけではないと思うが、もしトラウマになっているものがあるとすれば、何か怖い夢を見たからに違いない。何か怖い夢を見たという意識はあるのだが、記憶がないのだ。
――何かのきっかけで思い出すこともあるだろう――
 と思っているが、いつも一人孤独でいる時は、なかなか思い出すこともないと感じている。
 高校時代にできた友達は、結構芸術に親しんでいる人が多かった。羨ましかったが、話を聞いているだけで、楽しくなれるほど、精神的には落ち着いていた。
――大人になったのかな――
 一人で勝手に納得してほくそ笑んでいるが、ひょっとして彼らと友達でいれば、自分も芸術に親しむことができるのではないかという願望もあった。
 叶わぬ願望ではないように思えた。話を聞いていれば、自分にもできるような気がしてくるし、実際に彼らが音楽を演奏したり、絵を描いているところを見たりもしていた。
 絵を描いている時間というのは、何時間にもなることがある。集中できなくて、一時間もやらずにやめてしまうこともあったが、ほとんどは数時間、微動だにすることもなく被写体を見つめている。
 被写体は、風景画が多い。もし室内で小さなものを被写体にしているのであれば、ここまで付き合えていなかっただろう。見つめている風景に立体感を感じながら、遠近感が麻痺してくるのを必死で堪えていた。まるで自分も一緒に描いているように思いたいからであった。
 飽きずに一緒にいる井上を友達はどのように見ていただろう。集中して絵を描いている時はまわりを意識しないだろうが、描き終わってからの満足感の中では、すでに普段の精神状態に戻っている。そのあたりの精神的な機転が芸術に親しむものには必要なのではないだろうか。
 きっと友達が描き終わってからでも、まだ被写体に集中していたに違いない。集中からなかなか抜けることができずにいても、友達のやり遂げた満足感のある顔で癒されるのか、友達の顔を見ると、いつもの自分に戻ることができる。芸術の素晴らしさは、まわりの人に精神的な余裕を与えることにもあるのだと、再認識している。
「君をモデルに描いてみたいな」
 と言われたことがあったが、さすがにその時は断った。
「すまない。どうもじっとしているのは苦手なんだ」
 友達とすれば、絵を描いている自分のそばでじっと見つめていることができるので、きっと被写体になることもできるだろうと考えたのだろうが、そうでもない。芸術をする人は、さりげない行動や雰囲気に魅力を感じるが、実際に何かを考えて起こす行動には、結構行き当たりバッタリの思い付きが多いのかも知れない。
 もちろん、個人差はあるだろうし、彼だけなのかも知れない。他の芸術を楽しんでいる友達はそこまでないからだ。
 数人できた友達だったが、一番仲がよく、一緒に行動したのは、絵を描いている友達だった。どうしても絵に集中している時間が長いからであるが、それでも集中し始めると時間の感覚が麻痺してきて、かなり考えている時間が短いようだ。数時間が一時間も経っていないように思えることさえあるくらいである。
 夜になると、友達の表情に脂ぎったものが漲り始める。
 昼間の落ち着いた雰囲気か一変、喫茶店などで芸術の話を始めると、止まらなくなる。しかも同じことを何度も話すほどで、それだけ興奮して話しているのだろうが、自分の世界に入り込むと、得てしてありえることだというのは、井上にも以前から意識としてあったことだったので、それほど驚きもなかった、
 むしろ一生懸命に聞いてあげる方で、相手も聞いてもらえると思うから、さらに話を盛り上げる。自分に必要な部分だけをかいつまんで聞くことができているのが不思議で、きっと芸術に興味を持って聞いているからに違いない。
 話の内容が袋小路に入ってくると、さすがに本人も分かってくるようで、話に何とか収拾をつけるのだが、それも上手にできるところが素晴らしい。
――自分にそこまでできるかな――
 と思うほどだが、案外とできるように思える。集中して話をするのは、話の落としどころを最初から分かっているからに違いない。
 あまり人に相談事をしない井上だったが、もし人に相談するとすれば、自分の考えが決まってからに違いないと思っている。相談事をすること自体、自分の中であまり考えられないが、それは友達がいなかったからである。友達が増えてきて、気が合う友達だと思ってくれていると、甘えたくなる反面、
――嫌われたくない――
 という思いも強くなってくる。
――嫌われるのは、自分の意見を持たずに人に相談するからだ――
 と思うからである。
作品名:短編集58(過去作品) 作家名:森本晃次