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短編集58(過去作品)

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 自分で見たり聞いたりしたものでないと信じなかったり、理解しているものでなければ信じない。そんな性格が時として災いをもたらすこともある。
 井上にとって、彼の性格の中での欠点であろう。
 小学生の低学年の頃は勉強をしなかった。宿題すらやらなかった。宿題に関しては、意識してしなかったわけではなく、宿題が出ていたことを完全に忘れてしまっている。そのことは人に言っても、
「言い訳なんてしなくていい」
 と叱責されるのがオチである。昨日の今日で
「宿題があったことを忘れていました」
 などと言って誰が信じてくれるだろう。しいていえば、
「ちゃんと覚える気がないからでしょう。もっとちゃんと話を聞く時はしっかりしないとダメよ」
 と言われるくらいである。
 実際はその言葉の方が的を得ているだろう。確かに忘れてしまっているのは精神的に集中しておらず、覚える気もないからだ。ではなぜ覚える気がないのかというと、
「勉強をしなければならない理由が分からない」
 というのが一番の理由である。
 親に言わせれば、
「いい大学に入って、いい会社に入って」
 というお決まりのセリフが帰ってくるのだろうが、果たしてそれでどうなるというのか、そちらの方が分からなかった。
 あまりにも漠然とした問題であり、いい大学、いい会社と言われても、小学生の低学年で理解できるわけもない。
 学校での生活も面白くない。友達ができるわけでもなく、遊びが楽しいわけでもない。何をやっても面白くない。当然、自分で何を考えているか分からなくなり、学校内での自分の存在を考えられなくなる。自分の居場所が分からないのだ。
 しかし、きっかけというのは、どこかに転がっているもので、それを自分で意識できるかで、その後の人生が変わってくるというのは大袈裟であろうか。
 後から考えれば、井上にもいくつかのターニングポイントがあったことを感じている。今までに感じた人生のターニングポイントの最初は、勉強が楽しくなったあの時からに違いない。
 小学校では、二年間同じクラスで、しかも先生が持ち上がりだった。五年生になると、新しい先生になったのだが、この先生との出会いが、井上を勉強に目覚めさせてくれたのだ。
 あまり勉強を押し付けることもない。宿題を出すこともせずに、逆に何でもいいから家で復習をしていって、その成果を綴ったノートを提出すると、判を押してもらえる。
 それがいくつか集まると、賞がもらえた。
 それはノートだったり、シャープペンシルだったり、あまり高価なものではない文房具だった。
 それでも、ちゃんと包装されていて、上にはのしには「努力賞」、「敢闘賞」などと先生が命名した賞がつけられていて、立派な賞品であることには間違いない。ほとんどの生徒は何らかの宿題をしていた。
 それまで宿題をやったことのなかった井上も、このやり方には完全に乗せられた。賞がほしいわけではない。やったことが認められることの楽しさを知ったのである。他の生徒が宿題をやってくる理由がどこにあるかまでは分からなかったが、理屈が分からないとしなかった勉強をし始めたのは事実である。
「認められると嬉しい」
 という思いは強制されていないことへの安心感につながり、先生が常々話していることを理解できるようなってきた。
「宿題は、別にやらなくても君たちの損になるわけじゃない。これは減点法ではなくて加算法なんだよ」
 と話していた。
 要するに、今までの宿題は、生徒の勉強に対する意欲であるにも関わらず、満点からの減点法であった。
 やれば満点のまま、やらなければ減点、しかし、今度の先生は、最初はゼロからの出発で、やればやるほど満点に近づいてくる。すべてをこなせば、満点を超えるかも知れない。それが面白い考えだと井上には思えた。
――満点って何なのだろう――
 普通は百点満点で、百点から一点ずつ減算していけば、百回を超えると、そこからはマイナスである。
 しかし点数にマイナスという考えはないので、ゼロになれば、そこからいくら宿題をしなくても、ゼロのまま、それは不公平というものではないだろうか。
 そんなことまで考えていた。
 だが、加算法だといくらでも加算できる。満点という概念がなければ、いくらでも加算できる。五百点だったり、千点だったりすることも可能である。あくまでも理屈の上でであるが。
 宿題が楽しくなると、気がつけば勉強を理解していた。それまでやる気がなかったので、理解できなかった算数や、理科の理屈が分かってくるのだ。
「なるほど、だからこうなるわけか」
 子供にとって一番の楽しみは理解することではないだろうか。理屈が頭の中で繋がった時、面白さを感じ、
「さらに勉強してみたい」
 と思えるようになる。
 するとすべてが理解できるように思えてきて、自分で作っていた壁のようなものが瓦解するのを感じることができる。それは知識の壁だけではなく、意識の壁も同じである。意識の壁の瓦解の方が、ハッキリと見えてくるのではなかろうか。
 勉強が理解できると、成績が上がるのは当たり前のこと。それまでのまわりの目が一変してくる。
「やればできるじゃないか、さすが俺の息子だ」
 父親が言うと、
「何言ってるのよ。私の子供だからよ」
 と母親が言う。
 それも団欒の中の会話なので、ほのぼのとしたものだが、褒められていることは間違いないので、子供心に素直に嬉しかった。両親が初めて褒めてくれたのではなかったか。
 褒められると、自分がおだてに弱い性格であることに気付いた。中学に入ると、
「おだてられてやったことなどは、あまりその人の成果ではない。本当の実力ではないんだ」
 と言っている先生がいたが、小学生の頃に自分で気付いた性格なので、そんな先生の意見はまともに聞いていなかった。
 自分にとってマイナスになるような話を真剣に聞く必要なんてないと思っていたからである。
 その先生は、それ以外の言動でも少し理解に苦しむところがあり、どうやら他の教員からもあまりよく思われていなかったようだ。そんなこともあってか、中学を卒業する頃までに自分で考えて理解した性格に対しては自信が持てるようになっていた。
 ただ、性格的には、相変わらず、
「自分で見たり聞いたり理解したものでないと、信じられない」
 という思いは消えておらず、むしろ強くなったかも知れない。それが成長期の青年に対してどういう影響を及ぼすか、すぐに結果が現れるわけではないので、難しい判断であろう。そのことは井上自身分かっていることだった。
 しかし、そんな性格について人と話をすることはなかった。
――きっと他の連中とは考え方が極端に違うだろうからな――
 と思っていたからで、話すことで性格を頭ごなしに否定されるのが怖かった。
 自分の中で確立された性格であるとはいえ、極端な性格であることは自分でも理解しているつもりだ。成長期の自分たちが、少し精神的に過敏になっていることは分かっていたので、ちょっとしたことで意見がぶつからないともいえない。そんな時に反発する術を井上は知らなかったのだ。
作品名:短編集58(過去作品) 作家名:森本晃次