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短編集58(過去作品)

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 それとは別に、左右の手のぬくもりが違う時に、暖かい手をつめたい手に重ねたり、冷たい手を暖かい手に重ねたりした時、どちらを感じることができるかということを考えたことがあった。
 熱い方に集中していると冷たさを、冷たい方に集中していると熱い方を感じるのではないかと思っていたが、実際にやってみると、間隔が中途半端で、すぐに意識が分散されてしまう。
――落ち着きのない性格なのかな――
 と感じたのもそれからだった。左右の手で別々の演奏ができないことを証明したような結果になったが、逆に集中できないから不器用なのだという結論を自分で導き出した。
――精神的に落ち着いてくると、器用になるかも知れないな――
 とも感じていたが。どうやら別物のようだった。進級するにしたがって落ち着いてくるのは分かったが、一向に器用になることはない。これだけは生まれもったものなのかも知れない。
 双方向から見ることが不器用な井上ではできないと思っていたが、友達の話を聞いていると、不思議な感覚に陥っていた。
「追いかけられる感覚しか最初は思い浮かばなかったんだけど、途中から追いかけているような気持ちになってきたんだ。おかしなものだ」
 と話した。
「どんな気持ちになるんだい?」
 当然、友達としても知りたいところであろう。
「どんな気持ちって言っても、あまり意識しているわけではないんだけど、あまり気持ちのいいものではないね」
 そういえば井上は、小さい頃から先頭を歩くことを心がけていた。
 小学生時代での朝礼や運動会などでの行進では身長順の並びなので、前に人がいるのは仕方のないことだが、例えば電車やバスが駅は停留所に着いたら、その時は真っ先に飛び出さなくては気がすまなくなっていた。
「目の前を人にちょろちょろされたくないんだ」
 と口に出してみたが、
――本当にそうだろうか――
 と疑ってみたくなる。歩くスピードは他の人に比べれば格段に早いと思っている。ゆっくり歩くのが好きではなく、ダラダラ歩くことが余計な疲れを呼ぶと思っているからである。
 だが、それ以外にも理由はあった。
 前を歩いている人に追いつくことが嫌であった。
――追いついたら追い越さないと気がすまない――
 平行して歩くことを嫌った。歩くスピードが早くなったのは、無意識にそれを感じているからだろう。バスや電車から降りてから歩き始めると、後から降りてくる人たちを不思議と意識することはなかった。それだけ急いで改札口を抜けたり、最初の信号を渡ったりするからである。
 あれは小学生の時だったか、まだ先頭でないと気がすまないという意識のなかった頃であった。
 目の前を歩く人がいたのだが、その人は老人のようで、背筋を丸めてゆっくり歩いていた。
 背筋を丸めて歩いているので、かなり小さく感じられたが、どうにもその後ろ姿が気になって仕方がなかった。
 ホラードラマで、同じような光景を見たことがあった。閑静な住宅街を一人のサラリーマンが夜更けに家路を急いでいる。まばらな街灯に当たりは暗く、自分の革靴の音が響くほど、あたりは当然ながら、閑散としている。
 夜だがもやが出ているようだった。
――きっと季節は梅雨なんだろうな――
 と勝手に思い込んだが、梅雨の時期を思い浮かべていた。
 今にも雨降りそうで、実際に降ってこない梅雨を今までに何度も経験しているが、そんな時に異様な臭いが空気を支配していた。
――石のような臭いがするな――
 嫌な臭いではないと最初は思っていた。きつい臭いでもないからだったが、感じているうちに気持ち悪くなってきたことがある。臭いが直接の原因ではなく、湿気が気持ち悪さを引き起こし、臭いが嘔吐を誘発していた。それがトラウマとなって、気持ちの中に残ったに違いない。
 そんな時に意識するのは街灯だった。
 街灯の明かりには霞が掛かっていて、白い色に見えていたが、完全な白ではない。限りなく白に近いアイボリーのような色、どこかに影があるように思えてならなかった。
 影というのは、白い色と完全に区別されるものなのだろうが、霞の掛かった街灯はそうではなかった。
 白い中に黒っぽい影が同居しているような感覚がそこにはあった。それが幻想的な雰囲気を醸し出しているに違いない。
 前を歩いている男に対し、主人公は追いつかないようにしていた。靴音だけはいくら偲び足で歩いても響く。まったく音の反響は変わらなかった。それは画面を通してでも感じることができた。
 小学生のくせにそこまで理解できたのはなぜだろう。元々テレビを見る時は、一つ一つのシーンを細かく分析して見ることなどなかった。集中してしまうと全体的な流れを見失ってしまうからである。
 小学生がドラマを見る時は、全体的な流れを楽しむんだろうと思っていた井上には不思議な感覚だった。
 歩いていて相手が意識している様子はない。しばらくゆっくりとしたペースで老人の前に出ないように心がけていたが、さすがに業を煮やした主人公は早歩きを始めた。
 見ていて短気なように見えなかったのに、見る見る主人公の形相が変わってくるのが分かった。ものすごい形相で相手を追いかける。追いかけられた老人は、ちょうどあった角を曲がって見えなくなったが、主人公も同じように角を曲がった。
 すると、主人公はいやが上にも立ち止まることを余儀なくされた。立ち止まって前を見るが、そこに広がっている世界は、最初に登場したシーンと同じではないか。ただ、違うのはさっきの老人が目の前から消えていることで、一瞬何が起こったのかキョトンとしてしまったのだ。
 男は歩き始めた。今度は後ろに視線を感じる。
 男の背筋が次第に曲がってきている。
 角を曲がってしまったことで何かが変わってしまった。後ろから追いかけられる恐怖を感じた。だが、今度は次の瞬間、先ほどと同じように自分が誰かを追いかけている感覚が頭の中によみがえってきた。明らかに誰かの視線を感じていた。
 もやは晴れるどころか次第に深くなってくるように思えたが、影が強くなってくる感覚はない。角を曲がることで、時間を繰り返していることを言いたいドラマだったようだ。
 だが、見終わって井上が感じたのは、別のことだった。
――よく一人で別々の感覚を同時に感じることができるな――
 ということである。
 不器用な井上は、それが不思議で仕方がなかった。
 井上はドラマなどを見ながら、
――きっとすべてを見終わってからは、他の人が考えないようなことを思い浮かべるんだろうな――
 と思う方だった。人とは違う感覚を持っていることはおぼろげながらに分かっていたが、それがいいのか悪いのか、自分で判断できるはずもなく、ただ、感じたままを受け入れるしかないことは分かっていたが、いつの間にか潜在意識として残っているかも知れないとも感じていた。
 夜道を歩いていて、恐怖に駆られる友達の気持ちが話を聞いていて分からなくもなかった。
 井上は極端な人見知りをするタイプだった。
 まず人を信用することができない。それは人に限ったことではなくて、要するに現実主義なのであろう。
作品名:短編集58(過去作品) 作家名:森本晃次