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短編集58(過去作品)

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 確かに嫌なことが忘れられる一年半で、それなりに楽しかった。金銭的な蓄えもできたし、他の人たちのように、目標を達成させるためだけに働いているわけではないという自負もあった。それはそれでいいのだが、仕事は楽しくやるべきだと思っていたのだ。
 美弥子が前にしていた仕事は自分からというよりも、上司からの命令がほとんどで、時々間違っているのではないかと思うようなことでも、命令であればやらなければならなかった。
 完全な責任を負うことはなかったが、それでも自分が行ったことには違いないので、
――どうして逆らってでも正しいことをしなかったんだ――
 という後悔は先に立たない。
 そういう意味でこの仕事は人のために自分の考えで行って、喜んでもらえるという自分にとって理想の仕事に見えたのだ。
 幸い嫌な客がいなかった。それで続けてこられたのだろう。
 強要されることが一番嫌だった。
 特に親からの強要が子供の頃からのトラウマになっていた。強く言われるとどうしても逆らいたくなる。だが、親に逆らうことは、自分の死活問題になることは分かっているので、簡単に逆らうことなどできない。
 しかし、中学になると、少しずつ逆らい始めた。反抗期と言われる時期があることも納得がいく。抑えつけられれば反発するのが自然の摂理、当たり前だと思っていた。
――自分たちだって、中学時代はあったはずだ――
 それを忘れてまで、大人になりたくないとさえ思ったほどだ。
 美弥子が風俗の世界から足を洗う日がやってくることを、自分の中で予感めいたものがあったのを、後から感じていた。
 その客は初めての客だった。その時には初めての客よりもリピーターの方がはるかに多くなっていて、初めての客には少し緊張があった。だが、それは心地よいドキドキで、誰でも初対面の人にはドキドキするのと同じ感覚である。
 しかし、その客は最初から変だった。
「いらっしゃいませ」
 ボーイに通されてやってきた男性客が、個室の扉を開くと、いつものように三つ指ついて出迎えるのが最初の仕事だった。
 最初の相手が見せる素振りで大体どんな雰囲気か分かるのだが、大抵はソワソワしているよりも照れ臭さが表に出ていた。
 だが、その男には照れ臭さを感じることはなく、オドオドしているように見えるが、それでいて、落ち着きは隠せなかった。
 オドオドというのは、女性と二人きりになることなど、普段の世界ではないことでの緊張感なので、美弥子にとってはくすぐったいような雰囲気を感じる。
 その男にはくすぐったさは感じなかった。今までに感じたことのない、嫌な胸騒ぎだったはずなのに、以前にも同じような思いをしたことがあり、
――危ない――
 と本能的に感じていた。
 それでも商売なので、相手をしなければならない。
「どうぞ、こちらへ」
 普段だとそんなことは言わない。
 さりげない世間話の中から、自然と客を誘導するのがうまかった。男性も慣れているもので、会話をしながら、しっかりと美弥子との距離を適当なところまで短くしていくのがうまかった。
 そういう意味では楽であった。この仕事が好きな理由の一つと言ってもいい。だが、その男は美弥子の言葉はなければ動こうとしない。そんな男性にどんな話をしていいのか、見当がつかなかった。
――下手なことを言って相手を傷つけたくない――
 という思い、相手を傷つけてしまうと、何をされるか分からない恐怖もあった。
 会話がなければぎこちない雰囲気が漂い、空気が重たく感じる。部屋が次第に狭くなっていくのを感じると、男との間で逃げ場がないことへのプレッシャーが襲い掛かってくる。
 客とコンパニオン。これだけの関係が無言のうちに続いた。決して興奮しているわけではないのに、静かな部屋に息遣いだけが聞こえる。それも、男と女の声である。
 淫靡な雰囲気に包まれているが、それは裏を返せば一触即発の恐怖を含んだ空気だった。
 美弥子が危険を感じた時は、男の腕に持たれていたナイフが光った。
 そこから先の美弥子はパニックに陥っていた。
「助けてぇ」
 叫んだはずである。後になって人に聞くのもぎこちなく、気がつけば病院のベッドで寝かされていた。
 店の店長が心配そうに枕元で覗き込んでいる。店の中でも比較的客に人気のある美弥子は店長とも気さくに話ができた。
「君は天真爛漫なところがあるが、それが客受けする秘訣なんだろうね」
 と言われてまんざらでもなく、
「私って天然キャラなのかも知れませんね。これからもこれで通すつもりなので、よろしくね」
 という会話をしたのを思い出していた。店長の顔を見ると、思い出すことでもあったのだ。
「大丈夫かい?」
 本当に心配してくれている。
「ええ、でも一体何があったのかしら」
「一人の変な客が君に暴行を働いたのさ。外傷はそれほど大したことはなかったんだけど、君が興奮気味で意識が朦朧としていたので、急遽入院してもらったわけなんだ」
「あの時のお客さん?」
「ああ、そうだ」
 光ったものが何か分からなかったが、それがナイフだと教えられたのは、その後に警察の事情聴取が行われたからだ。こういう商売をしていると、警察といえども、いや、警察だからこそ、偏見の目があるのかも知れない。それを最初から覚悟しておかないと、彼らと話などできないだろう。
 果たして、想像通り、警察はまず形式的な質問に終始していた。だが、その時々で興味深げに自分を見つめているのが分かってきた。そのいやらしさに満ちた目は、今までに感じたことのないものだったが、それは自分がすっかり風俗嬢になってしまったことを示していた。以前のOL時代には分かっていた世界だったはずである。
――こんな人たちを相手にしたくないわ――
 きっとお客として見るのは嫌な部類だったに違いない。
 何よりも警察は、犯人の男性との関係を最後まで疑っていた。事情聴取の半分はそれが目的だったように思う。冷静に考えればお互いの関係を追及するのは当たり前のこと、見ず知らずの相手に切りかかったのと、知り合いに切りかかったのでは、動機の面で完全に変わってくる。
 だが、どう考えても男性と美弥子を結びつける接点はない。男がナイフをどうして持っていたのかは結局教えてくれなかったが、美弥子相手に起こした傷害事件は、完全に衝動的なものだということで事件は起訴された。
 裁判もあって、美弥子はもうウンザリしていた。さすがに最初は店を休んでいたが、復活しても、なかなか前のような気持ちにはなれない。元々金銭的なことでの風俗勤務ではなかったので、これを機会に仕事を辞めることにした。
 美弥子は一年住んだ街を離れて都会へと向った。静かに一人で細々と暮らしていくことを望んだ。本当であれば、都会の生活に疲れて田舎に帰ってくるのが普通なのに、美弥子は逆だった。
 金銭的には不自由はない。精神的にもたくさんの人の中で埋もれるように生活するのが今の自分に向いていると思っていたので、問題はない。
 雑居ビルの一階にテナントとして入っている花屋さんでアルバイトを始めることになった。
――やっぱり花から離れられないんだわ――
 風俗の中で、常連客から、花に例えられることもあった。
作品名:短編集58(過去作品) 作家名:森本晃次