短編集58(過去作品)
男の人からの話は、新鮮だった。愚痴も愚痴に聞こえない。
――私にだから話をしてくれているんだわ――
と思うことは、今まで感じていた自分に対しての女性のイメージを変えていた。「癒し」という言葉があるが、まさに自分は癒し系ではないかという錯覚に陥った。
――ナースが患者にとっての白衣の天使なら、私もお客さんにとって天使なんだわ――
と勝手に思い込んでいた。
「話を聞いてくれるだけでも違うんだよ」
と、時間一杯、話をするだけで終わってしまう人もいるくらいだった。気の毒ではあったが、美弥子にとっては、嬉しい限りである。今まで彼氏とは対等というよりも一歩こちらが下がった形を意識していた。だが、店では基本的にお客さんを立てる。だが、立場を明確にしなければならない理由はどこにもなく、一緒にいるだけで楽しめればそれでよかったのだ。
――相手もそれを望んでいる――
決まった時間だけの恋人同士、時間一杯になると、帰してしまうのがもったいないと感じることもあった。
――寂しいのかしら――
こんな思いは久しくなかった。
彼氏と会えない時の寂しさとは訳が違う。また、離れていった男たちに感じたことのないものだった。
寂しいと思いながら、
「また来てくださいね」
と明るく振舞わなければならないことに複雑な思いを感じるのだ。
別れとは違うにも関わらず、別れの雰囲気を感じる。また自分のところに戻ってきてくれるとは限らない一抹の寂しさだ。
そのくせ、次の客のことを考えて胸がドキドキする。
――どんな人なんだろう? 乱暴な人でなければいいけど――
美弥子には常連が多かった。
「君といると、精神的に落ち着くんだ。リラックスできるっていうのかな」
そう言ってくれる客が一番嬉しかった。ほとんどの客が似たようなことを言ってくれる。
「嬉しいわ」
一言答えると、
「それそれ、その一言が男にとってまさに期待していた返事なんだよ。下手に何かを訊ねて来られると、気持ちが萎えることもある。それが男というものさ。シンプルな言葉の中に、一時の恋人気分を得ることができる。男にとって、まさに癒しのような存在なんだよね」
余計なことを言わないのは、美弥子の性格ではあった。今まではあまり自分では好きな性格だとは思っていなかった。下手にいろいろ話しては、話題性に乏しい美弥子は、相手から突っ込んだ話をされると、萎縮してしまう。そんな自分が嫌だった。
誰も知らないはずの土地で、今の自分を知っている人だけが数人いる。この環境に満足していた。
本当であれば、自分の自虐的な生活に戒めを感じてもしかるべきなのに、
――これが私の人生なんだわ――
と考えても、開き直っている感覚がない。心からそう思っている自分がいじらしくも感じられた。
常連客がつくのも、そんな美弥子の気持ちを分かってくれているからだ。
彼らには共通点がある。
普段の生活は、何不自由ない生活である。家庭を持っている人もいて、家庭は円満ということだ。
仕事も順調で、会社ではそれなりに立場のある仕事をしている。やりがいもそれなりにあるのだと彼らは教えてくれる。
――なぜ、こんな人たちが――
最初は不思議で仕方がなかった。
――一時の快楽を求めて――
美弥子が彼らに感じた一番最低の思いだった。誤解していたと言ってもいい。しかし、その思いは一瞬で、それからすぐに考えは一変した。
ある一人の客の話を思い出した。彼の話を聞いてから、他の客も同じような目で見るようになると、次第に話の内容が理解できるようになっていった。それだけ、美弥子が素直にこの仕事ができている証拠であろう。
「飽和状態って、これほど苦しいものではないって感じることもあるんだ。例えば、食事をして、もう食べられない状態になった時、満足感を通り過ぎて、苦しくなることがあるだろう? 汚い話だけど、出さないと溜まるだけで苦しいよね。それがストレスになってくるのさ。理屈では分かっていたつもりでも、実際になってしまうと、これがまた想像以上に苦しい」
苦しさを思い出しながら話しているはずなのに、楽しそうに話している。それが興味を引いた。
「そうなの?」
「ああ、しかも、それを誰にも悟られたくないという思いもあるから、余計に苦しいんだ。この気持ちはなかなか分からないかも知れない」
「不思議な感覚ね」
「足が攣ったことあるかい?」
急に話が変わった。
「あまりないわ。でもかなり痛いらしいんでしょう?」
「痛いとも。足が攣る時というのは、油断している時に攣ったりする。寝ていて、思わず身体を伸ばした時など、やばいと思ったら、もう遅いんだよ」
「前兆があるんですか?」
「あるね。しかも感じた時には抑えられないんだけどね。くしゃみのようなものさ。足が攣った時に、まず考えるのは、誰にも触られたくないという思いだね。自分で触るのも痛いくらいなのに、誰かに触られるとどうなるか分からない恐怖があるんだ。だから、痛くても誰にも知られたくないと思って、なるべく平静を装うようにしてみる」
「我慢できるの?」
「たいていは我慢できるものではない。額から脂汗が滲み出たりしているからね。顔も真っ赤になっているかも知れないよ。まず呼吸が数秒できなくなってしまうだけど、何とかなると思うのは、必ずすぐに痛みが通り過ぎるのが分かるからだね。筋肉の硬直が起こすものだからね」
「それと、苦しい時が似ているということね?」
「そうだね、人に悟られたくないというのは、足が攣った肉体的な苦痛よりも、精神的な苦痛の方が実に辛い。癒しを求めたくなるのも仕方がないということかな?」
美弥子はこの話を自分にも当て嵌めてみた。
確かに人に悟られたくないという思いが一番辛いことを小さい頃から感じていたかも知れない。だから、なるべくオープンな気持ちでいたこともあった。しかしあまりにもオープンになりすぎて、人の気持ちを考えない時期もあったかも知れない。
本能のまま、自分の考えていることそのままに行動していたこともあった。それが中学の頃である。理屈っぽいくせに、本能には逆らえないという考えもあって、そんな自分を知らず知らずに嫌悪していた時期である。
――昨日よりは今日、今日よりは明日――
成長を信じて疑わなかったことで、その日の反省もおろそかになる。まだ、反省しようという気持ちがあっただけでもいいのかも知れない。次第に無駄だと思える反省すらしなくなっていた。
そういう意味では、美弥子は楽天的な性格だったのではないかと思える。物事を深く考えない性格は長所でもあり短所でもある。
――長所と短所は紙一重――
まさしくそのとおりである。
美弥子にとって転機が訪れたのは、その仕事を始めて一年半が経とうとしていた頃だった。一生続けられる仕事ではないことに、そろそろ意識をし始めていた頃で、我に返っていた時期といってもいい。
そろそろ客との会話もマンネリ化し始め、自分だけが、いつまでも取り残されてしまっていた気がしてきた。
作品名:短編集58(過去作品) 作家名:森本晃次