欠けた満月の日
「遊佐を乗せた日はよく晴れてたよ。雲ひとつなくて星がたくさん出てた」
優しい笑みがこぼれる。首を傾けてフロントガラスのななめ上をのぞく。彼の心に寄り添いたくて望も首を伸ばす。空は曇っている。先程まで見えていた月影もない。
前方の車がウィンカーを点滅させながら、次々に右隣の車線へ割りこんでいく。隣の車線はさらに停滞し始める。ブレーキランプの赤い光と、ウィンカーのオレンジ色の瞬きがひしめき合う。車の中が光に侵されて、隣を走る車の輪郭がぼやける。視界は白い膜に覆われ、全てのものが遠く手の届かないところにあるようだった。
「一車線に規制してるみたいだ」
徐々に車を右によせていく。右車線は飽和状態で一台の車が入る隙間もなさそうだ。
彼があきらめたように息をつくと、フロントガラスに白いものが落ちた。望はシートベルトを引き、前かがみになって外を見た。視界のかなたに山影が色濃く映る。彼は根気よくハンドルを回転させながら、右車線に車を割りこませようとしていた。
「降ってきたな」
相槌づちを打つ間もなく、粉雪がフロントガラスに落ちる。ふわりふわりと夜空を舞う。音もなくふり落ちる雪は車体に落ちては消える。耳鳴りがして、カーステレオから流れるエルトン・ジョンの歌声をかき消していく。
生き物のように冬の空を踊る雪のかけら。無数のヘッドライトに照らされては降り落ち、道路を白く染めていく。前方の車がわずかにすべる。将斗も慎重にハンドルを操作する。
「おまえを乗せたあのときは、すごい雨だったな」
ワイパーがフロントガラスを覆う雪をかき分ける。将斗はすぐ前のブレーキランプを確認しながら、右車線へ車を入れていく。
「……あの日は凛子の家から帰る途中だったんだよね」
高校三年の晩冬を思い出す。帰り際に小雨が降っていた。凛子の母親に赤い傘を差し出された。それは生前の凛子が使っていたものだった。三度目の外出許可が下りた時に買いにいったと聞いていた。宝物のように大事にしていたそれを彼女が使うことはなかった。
望は傘を受け取らなかった。借りてしまうことは、彼女がこの世にいないことを証明するようなものだと思った。
見知らぬ男に手首を捕まれて将斗に助けられたとき、彼はカッターシャツを着ていた。あの時は手首を握られた恐怖と安堵感で頭の中がひっくり返ったようになり、泣きわめきながら将斗にしがみつくことしかできなかった。
今でも赤い傘を見ると、あの男の声を思い出すことがある。
――望ちゃん
「どうした」
将斗に肩を揺さぶられて、我に返った。車は渋滞を抜けようとしている。
「もうすぐ着くぞ」
「あ……うん。ありがとう」
記憶の底から戻ってこれないまま、返答をした。将斗はいつの間にかタバコをふかしてゆったりとハンドルに腕を置いている。
懐かしいタバコの香りが体を包む。あの時のことはしばらく思い出すことがなかったのに、手首を握られた感触まで生々しく甦ってくる。きっとこの香りのせいなのだろうと思った。将斗のカッターシャツは香ばしいタバコの香りがしていた。
車はゆっくりとインターチェンジを下りる。雪は次第に姿を消していく。サイドガラスは暗闇ににじんでいる。このまま展望台に行ったところで星空は見られないだろうと思った。けれど戻ることもできない。ただ成り行きにまかせている自分は、あの頃とちっとも変わっていない。
体が少し斜め上に傾く。眼前に舗装された坂道が迫ってくる。将斗はタバコをくわえたままハンドルを操作する。車内に煙が立ち込める。心臓がどくどくと嫌な音を立て始める。
舗装された道路は次第に細くなっていく。荒れた地面に車が乗り上げる。
四年前のあの日に近づいていく――