欠けた満月の日
未練がましい言葉がボロボロとこぼれ落ちる。情けなくても、引っ込んでくれない。
「先生が好きなら好きで、そう言ってくれたら応援したのに……」
望の言葉に、彼はため息をついた。ハンドルを握りなおしたので怒らせたかと思った。けれど意外にも彼は眉を下げて口元をゆるめていた。
「あのな、それはおまえの勘違い。遊佐を連れ出したのは、遊佐と朔太郎に頼まれたからだ」
「二人に……? 何を?」
「最初で最期のデート」
暗闇の中を電車が追いついてくる。川の向こうから走る音が聞こえる。凛子と兄が見たかも知れない夜景が前方に広がっていく。闇より深い夜空、まばらな星、雲に遮られた月、遥か彼方に連なる山々の峰――
「二人は恋仲だった」
切なくピアノの音色が鳴る中、将斗の声がクリアに響く。凛子の顔が思い浮かぶ。元気だった頃の、兄の話を聞きたがっていた凛子のはじけるような笑顔。
「そんなの……いつから」
心臓がドクドクと脈打って、続く言葉が出ない。いつから好きだったのか、いつから隠していたのか、いつまで隠すつもりだったのか。握っている拳が嫌な汗をかく。彼は平静な面持ちで口を開く。
「恋仲っていっても俺がそのことを知ってただけだ。遊佐は友人の兄を好きになったことを望には言わないでほしいと言っていたし、朔太郎も妹の友達を好きになったなんて言ったら軽蔑されるかもしれないからと口止めされてた。二人は付き合ってなかったし、告白もしなかった」
彼の言葉を噛み砕こうとする。四年前の傍若無人だった自分を思い出す。
「そんな……軽蔑なんてしないのにね」
無理に笑おうとしたら、滴が一粒落ちた。渋滞で車を減速させた将斗が望の頭にポンと手を乗せた。親友と兄の秘密を抱え続けてきた彼の優しさが熱を通して伝わってくるようだった。
「おまえには言うべきだし、想いも伝えるべきだと言った。でも遊佐も朔太郎も、そのことを拒んだ。告白なんかしなくても、二人の心は通じあってるみたいだった。けどそれじゃあ、後になって知ったとき、望が傷つく」
その言葉に、涙があふれかえった。彼は手を伸ばして「悪かった。もっと早く言えばよかった」と望の頬をぬぐった。望は頭を振った。隠されていたことではなく、将斗の優しさに涙が止まらなかった。
「二人に頼まれて、車で俺の実家近くの展望台まで行ったよ。とんでもなく寂れた山奥だけど、星がきれいだという話を朔太郎がおぼえていたんだ。秋が深まった頃で、それが最期になることはなんとなく感じてた。二人を後部座席に乗せてこの夜道を走った。おまえには言えなかった。ごめんな」
将斗は眉を下げ、黒い瞳でこちらを見た。フラッシュのように瞬くテールランプが瞳の中に映っていた。淡いオレンジ色の光に包まれて、将斗を見た。彼の言葉を反芻する。想いを抱き止める。それから少し微笑む。
「話してくれて、ありがとう」
それは素直な気持ちだった。将斗の口元がほころんだ。彼の重荷をひとつ下ろせたかと思うと、なんだかほっとした心地になった。
並走して走っていた電車はスピードをゆるめ、大きな明かりを灯す街の中に消えていった。
「おまえにも、あの夜景を見せたい」
そう言ってアクセルを踏んだ。もう望の方は見ていなかった。凛子と兄が目にしたはずの風景を見ながら、将斗が暮らした家に向かう。
過去から今につながる人の想いに押し潰されそうになりながら、望は前方に連なる山々を見た。目を凝らすと人家らしき明かりがポツリポツリと灯っている。
よし、どんとこいと思いながら背筋を伸ばした。兄の想いも、もういない凛子の恋心も、将斗の思いやりも、私は全部受け止める。
三つめの鉄橋の下をくぐり、川を渡ると、それっきり電車は見えなくなった。
***
奈良街道を抜けると、なだらかな道が続いた。周囲には川も山もなく、平地に道が広がっている。車道に沿って店が軒を連ね、自転車に乗る人も見える。信号や交差点、歩道橋も多い。望が住んでいるあたりと夜の明るさは変わらない。建物が低い分、空が広く暗く感じた。
青信号を突っ切ると車はさらに加速し、ずっと前を走っていた白いセダンを追い越した。スピードをゆるめる様子もなく、ぐいぐいと住宅街を走っていく。
「さっきの車、ずっと一緒だったね。名古屋の方に行くのかな」
「さっきって、なんだ」
「前を走ってた、なにわナンバーの白いセダンだよ。奈良に入る前から、いた気がするけど」
「白いセダンなんて数えきれないくらい走ってる」
ぶっきらぼうに言うと、さらにアクセルを踏み込んだ。交差点に立つ電柱が急激に迫ってきたので思わず目をつむった。冷や汗をかいたが、彼は軽やかにハンドルを操作していた。
その後も信号が黄色になると車を加速させる。そのたびに望はシートベルトを握りしめ、心臓が縮むような心地がした。きっと凛子を乗せていたときはこんな急激な加速はしなかっただろう。自分が助手席に乗っていることを忘れているんじゃないかと思い、サイドブレーキのそばに置かれたタバコを隠そうとした。
すると彼はすかさず「こら」と言い、作戦が成功したのか失敗したのかわからなくなって、なんだかおかしくなってしまった。
望が笑うと、将斗も笑った。頬を上げて笑っているのを見るのは本当に久しぶりだった。彼は笑いながら「おまえはほんとに」と言った。続く言葉を待ったが、彼は寂しげに微笑むだけだった。
***
車は天理インターチェンジから名阪国道に入る。ゆるやかな坂ときついカーブがどこまでも続いている。大型トラックが今にも横転しそうな様子で隣の車線を走っている。将斗は車を加速させる。市街地を走っていた時は助走に過ぎなかったのだと気づいた頃には、体がシートに押さえつけられていた。
「ちょっと、スピード出しすぎ!」
「問題ない、問題ない」
将斗が無邪気に笑っている。望はその顔を見る余裕もない。
「凛子が乗ってた時は、こんなにスピード出してないよね?!」
「そりゃそうだろ。法定速度で走ってるのに朔太郎がもっと速度を落とせって言うから、走りにくくてしかたなかったよ」
楽しげにそう言いながら、追い越し車線に乗って軽々と大型トラックを追い抜いていく。うしろに押される力に負けじと首に力が入る。スピードメーターは時速百キロを超えようとしている。法定速度が何キロかしらないが、捕まる、絶対捕まると耳鳴りを聞きながら考えていた。
曲がりくねった道を走っていると、ふいに前方の視界が開けた。山の斜面に人家の光が点在している。山頂でも光が明滅している。空は雲に覆われ、ぼんやりと月明かりが見えている。国道のランプはどこまでも連なり、シグナルレッドの光が車を導いている。
「お兄ちゃんと凛子も、この光景を見たんだね」
急カーブにさしかかると、車は減速した。前方を走る車にオレンジ色のテールランプが灯っている。温かな光はどこまでも連なり、光と光が混ざりあって白くまばゆく輝いている。まるで凛子のようだ、と望は思った。
カーブに合わせて将斗はゆっくりとハンドルを回す。