欠けた満月の日
リビングのドアの隙間から、兄がスタンドピアノの鍵盤に突っ伏しているのが見えた。その足元に将斗が座っていた。兄は消え入りそうな声で「僕にできることはこれくらいしかないから」と言った。将斗が立ち上がり、兄の肩に手を乗せた。将斗の口元が動いたが、聞き取れなかった。望はただ廊下に立っていた。あそこに入ることはできないと感じた。自分が凛子にしてやれることなどあるのだろうかと考えた。
しばらくして二度目の外泊許可が下りた。兄、将斗、東堂、そして望の4人で凛子の家へ向かった。夏が終わり、照りつける日射しの中に冷ややかな風を感じられるようになった。
パジャマ姿の凛子がリビングのソファに座って待っていた。一時期は持ち直していたのに、彼女はますます痩せ細り、青白い顔をしていた。
「では、凛子ちゃんのために弾きます」
兄が黒いスタンドピアノの前に座る。虚ろな目をしながら、それでも凛子は兄をじっと見ている。望は汗ばんだ手のひらをぐっと握りしめる。将斗も腕を組んでソファに座っている。凛子の両親がうしろで見守っている。東堂がアコースティックギターを構える。
兄の『Rins Song』が始まる――
***
「きれいだね……」
望はサイドガラスの遥か向こうを眺めながら呟いた。白、黒、青、赤と無数の車が追い越してく向こう側に、大きな街が見える。将斗は黙々と車を走らせる。
望を乗せたロードスターは大きな橋を渡って奈良街道を西に走る。左手に並走する一級河川は次第に細くなっていく。コンクリートに固められた堤防の向こうに駅が見える。停車した電車は生き物のように発光している。何両にも連なるその生き物から、黒い粒がはきだされる。ゆらゆら、ゆらゆらと人影はうごめき闇へと消えていく。窓の形をした無数の光がゆっくりと規則正しく動き始める。
周囲の街は暗く、駅だけが異様に発光しているように見える。人影は吸い込まれ、はきだされ、暗い街へと消えていく。
そしてひとつ、家の明かりが灯る。ぽつりぽつりと、人の営みが光となって灯される。
兄の『Rins Song』が終わる。細くなった手で凛子が拍手をする。将斗や凛子の母親も手を叩いている。兄がふり返る。満面の笑顔で――
「あの中に凛子がいればいいにな……」
意図せず言葉が音になって漏れだした。将斗がちらりとこちらを見る。ぎゅっと口をつぐんで、鼻の奥から湧きだしそうな涙を飲み込む。
「ごめんっうそ! 凛子は死んでもういないってことは、ちゃんとわかってるから」
言った先から、両目と鼻から熱いものがこぼれ落ちそうになった。取り繕うとすればするほど、ぼろぼろとこぼれ落ちていった。凛子が死んで四年もたっているのに、こんなに熱い生の感情が残っていたことに驚いてしまった。
「いいんじゃないか、それで」
数回しか着ていないリクルートスーツの袖で顔を拭いていると、将斗がつぶやいた。あの頃よりも色褪せた少し疲れた表情で、けれど真っ直ぐ前を向いていた。
「いい……のかな。そんな夢みたいなこと言って」
「辛いときはそれでもいいだろ。現実ばっか見てられねえよ。遊佐もきっと、いいって言ってくれるだろ」
「言ってくれる……かな」
「俺もそう思うことにするよ。遊佐は、あの街のどこかで生きてるってな」
正面を見てハンドル操作をする将斗の口許に、優しい笑みがこぼれる。まばらに生えた髭が動く。凛子に数学を教えていたときの暖かな微笑み――
凛子が亡くなるずっと前から気になっていたことがある。聞くなら今しかないけれど――
そう思ったとき、突如、走る車の左手から電車が姿を現した。車輪がレールを殴りつける轟音が響き渡り、サイドガラスの向こうに視線を向ける。
壁も柵もない鉄橋が、川の向こう岸から車道の真上に向かって伸びている。闇夜の中を電車が駆け抜けていく。車両は黒く、光に切り取られた窓が異様なほど煌めいている。幾重にも連なる光の中で人々がうごめき、走る車の真上を通過していく。少し前に駅に停車しているのを見た、あの電車のようだった。
車は鉄橋の下を走り抜ける。闇より黒い電車は山沿いを走りトンネルの中へ吸いこまれていく。連なる山を遮るように、県境の道路標識が立っている。
「びっ……くりした」
望が目を丸くしていると、将斗は笑い声をもらした。
「おまえの反応、遊佐よりおもしろい」
そう言ってアクセルペダルを踏んだまま笑っている。自分の反応の何がおかしいのかと憤慨する一方で、彼の言葉に胸が冷えていく。
「凛子と……ここを走ったことがあるんだね」
低い声でそう言うと、彼は笑うのをやめて「そうだな」とつぶやいた。
右手後方の山影から、先ほどの電車が姿を見せた。車より少し早いスピードで並行して走っている。夜空と重なり合った山に沿って、鮮やかな山吹色の光がかけ抜けていく。移動する車に乗って、隣を走っている夜の電車を見続けると、時が止まっているように思えた。
「一時帰宅の許可が下りたときに一度だけな」
そう言ったあと「あれが最期になったけどな」と言葉を重ねた。
望と出会ったとき、将斗は「遊佐に教えて始めてもう四年になる」と言っていた。凛子との付き合いは望より長い。二人の間に何か隠し事があると気づいたのは、秋にさしかかった頃だった。凛子の話をするとき、将斗が何かを言わないように言葉を選んで話していた。今はすっかりその気配は消え、二人の隠し事は未だにわからないでいる。
時間の停止したこの空間で、望は意を決する。
「凛子ってさ……先生のこと、好きだったよね」
車内に自分の声が嫌に響く。電車の走る音にかき消えればいいのにと祈りながら、指を組んでぎゅっと握る。将斗は黙ってフロントガラスの遠く彼方を見つめている。
再び車道と交差する鉄橋が見えてくると、電車が先に鉄橋に差しかかった。長い車両を引き連れて、柵のない細い鉄橋を右から左に勢いよく通過する。古い映画のフィルムのように、ちぎれた黄金色がひとつになる。
将斗が望を見る。
「先生って、誰だ」
「え? えっと……滝川先生のことだけど」
「おまえ、やっぱり聞いてないのか?」
目を丸くして言った将斗に、望は拍子抜けしてしまった。
「聞くって何を」
「いやだから、朔太郎から」
「お兄ちゃんが何なの」
思わず語気が強くなった。「今は凛子と先生の話でしょ」と運転している将斗に詰めよると、彼は肩をすっと落として息を吐いた。エルトン・ジョンの歌声が車内に響いている。
「なんで『Rins Song』だったのか」
将斗はハンドル操作をしながら言った。例の電車は川の向こうにある駅に停車している。ロードスターが先をゆく。
「そんなの……聞いても答えてくれなかったし」
声を落とすと、将斗は小さな声で「そうか」と言った。前方の白い車が急にスピードを緩めたので、将斗もブレーキを踏んだ。望は前につんのめる。
「先生に何か言えないことがあるのは、なんとなくわかってた。凛子もそうだった。けど誰も答えてくれなかった。私は仲間外れだった」