欠けた満月の日
2.かくしごと
「ねえ起きてよ、望」
優しい声が耳の奥をくすぐる。閉じたまぶたに初夏の日差しが照りつける。気だるい午睡の重みが体をまとう。このまま目を閉じていたいと思う。
「ねえってば。滝川先生来ちゃうよ」
その言葉に望は体を跳ね起こした。目の前に凛子がいた。真っ黒な髪を首の付け根でゆるく束ねて巻いている。白いワンピースは風に揺れ、カーテン越しに日射しを浴びて頬はまっさらに輝いている。
「やばっ、課題終わらせるつもりが寝ちゃった! 今何時……」
望はよだれの垂れた口元を拭って、凛子の部屋にかけられた時計を見ようと顔をあげた。
「こら、また人んちで寝てただろ」
ため息をつきながら凛子の部屋に入って来たのは兄の朔也だった。髪は薄茶色で色白、下がり目の中に淡いブラウンの瞳がおさまっている。背も高いし顔も悪くないのに、とにかく服がダサい。量販店に売ってそうな赤いチェックシャツにベージュのパンツ。背負っているリュックはレジャー用のやたらでかいやつだ。
「なーんだ、お兄ちゃんか。もっとオシャレな服来てくればいいのに」
「遊びにきてるんじゃないの。勉強教えにきてるの。ごめんね凛子ちゃん、だらしない妹で」
そう言ってペコリと頭を下げたので、望は舌をつきだした。
すると兄のうしろから将斗が顔をのぞかせた。虚をつかれた望はあわてて身なりを整える。
「課題、明日までだぞ。出来たのか」
そう言って将斗はミニテーブルの上に広げられたノートに視線を落とした。それは望の数学のノートで、もちろん真っ白だ。先週の授業で将斗に命じられた問題が解けず、凛子に助け船をだしてもらいにきたのだが、気づいたら寝てしまっていた。
「だってこんな難しい問題できるわけない! 凛子だってわからないって言ってたし……」
「それはおまえの問題だ」
ピシャリと言われて望はぐうの音も出なかった。黒髪の将斗がじっと見下ろしてくる。服はいつも黒かグレーで色合いは地味だが、目鼻立ちがはっきりしている将斗にとてもよく似合っていた。母親が買ってきた服ばかり着ている兄とは天と地の差だ。
「じゃあ今ここでやる」
望が開き直ってミニテーブルの前に座ると、将斗に首根っこを捕まれた。
「今から遊佐の授業だ。おまえは帰るんだ」
「お兄ちゃんも来てるんだから、凛子は先に英語でもいいでしょ。先生はどうせ暇なんだから……」
「誰が暇だって?」
将斗はそう言って望の腕をつかんで引っ張りあげた。驚いた望は目を丸くした。怒らせたかと思っておそるおそる顔を覗くと、将斗は意外にも笑いをこらえているようだった。
何かおかしなことをしたのかと首をひねっていると、将斗に押し出された。「やーだー凛子と一緒に勉強するのー!」と戸口で叫んでいると、「手のかかるやつめ」と将斗が脇腹をくすぐってきた。こそばゆくて笑わずにいられなかったが、部屋の中にいる凛子と兄も笑っていた。「ほんと仲いいよねー」と言われた気がしたが聞かなかったことにした。
そのまま部屋の外に押し出され、扉を閉められた。廊下は静かだった。仲間外れにされたようで軽く腹が立ったが、凛子の笑顔が見れたのでよかったと思った。
キッチンにいた凛子の母親に挨拶をし、スニーカーに足を入れた。紐を結んで玄関を出ようとしたとき、階段の上から大きな音が響いた。何かが床に落ちたような音だった。振動は地響きのように足元を揺さぶった。望は硬直して動けなかった。血相を変えた母親が「凛ちゃん!」と叫んで階段をかけ上がっていったのを見て、我に返った。
スニーカーを乱暴に脱いで階段を上がった。
廊下にしゃがんだ兄が凛子を抱き止めていた。凛子は意識を失っているのか、半分目を開けたままダラリと脱力していた。凛子の母親が何やら叫んでいたが、全く耳に入ってこなかった。兄のすぐそばに立つ将斗がどこかへ電話をかけていた。望は震えをこらえながら凛子の冷たい手を握ることしかできなかった。
高校三年の、夏の始まりのことだった。
***
急性白血病――余命半年だって。
四年前の夏、望に余命を告げたとき、凛子は笑っていた。病室の白いカーテンが世界を遮断していた。望が言葉を失っていると次第に顔をくしゃくしゃにし「余命半年だって……」と声を漏らした。
「うそ……だよね」
言った先からボロボロと涙がこぼれ落ちた。自分が泣いているのか、凛子が泣いているのかわからなくなった。世界はにじんで汚れて凛子が見えなくなった。やたらこめかみが熱くて、まぶたが重かった。凛子の手を握った。手のひら全体が脈打っていた。凛子は今ここで生きている、突然消えたりなんかしない――彼女の手を握りしめながら自分に言い聞かせた。
凛子は涙をぬぐうと、望の手を握り返した。
「ねえ望、まだ半年もあるんだよ。私、受験するよ。望と一緒にキャンパスの土を踏むよ」
凛子は笑っていた。夏の夕陽を浴びて命は輝いていた。凛子の笑顔を見たいのに、視界は滲むばかりだった。
それから兄と将斗は病室で授業をすることになった。彼女は受験することを望んだけれど、面会時間には限りがあった。彼女の体調が優れないことも多く、二人は様子を見ながら別々の時間に教えにいっていた。
望が数学を見てもらっているとき、何度か凛子の話題をふったことがある。凛子は元気にしていたか、教えているときはどんな様子か、彼女がどんな話をしていたか――それは大好きな友人の他愛のない話だったけれど、彼はいつも「あぁ……そうだな」と生返事をするばかりで、すぐに口を閉ざしてしまった。
凛子に将斗の話をしても要領を得ない反応ばかりする。二人が何か自分に隠していることがある、と思い至るまでそう時間はかからなかった。
夏も盛りを過ぎ、凛子の体調は回復しているように見えた。相変わらず病室のベッドの上だけれど、いろんな話をした。好きなテレビ番組のこと、音楽のこと、お互いの家族のこと、友人のこと。なぜかいつも最後は将斗の話になった。いつもひどい仏頂面だけどとてもいい先生、と凛子は言った。頬が色づいて無機質な病室が華やいだ。兄から聞いた将斗のくだらない話をしながら、凛子は恋をしていると思った。
余命があと数ヵ月だなんて、きっとヤブ医者に当たったんだと思った。晩夏の柔らかな日を浴びて、凛子は輝いていた。
そんな折り、兄が『Rins Song』の弾き語りをしたいと言い出した。一時帰宅の許可がおりた凛子に聞かせてやりたいと言った。「ヘタなピアノを聞かせたら余計に具合が悪くなる」と引き止めた望などおかまいなしに、兄は猛練習を始めた。法学部生の東堂も熱心に坂木家に通い、将斗は聞く専門だったがよくアドバイスをしていた。
リビングで練習する様子を覗きに行ったことがある。凛子は自分の友人なのにのけ者にされた気がした。歌も楽器もできないけれど、どうにかして仲間に入りたかった。