欠けた満月の日
ミディアムテンポのピアノのイントロが、記憶を急激に巻き戻す。明るいのにどこか切ない音色。英語の歌が始まる。低い男性の声、英語を駆使して、兄が歌っている――
四年前、兄が弾いていた『Rins Song』に違いなかった――
あの頃、将斗の他にも家を出入りしている男子学生がいた。たしか法学部の四回生で、眼鏡をかけた坊主頭の真面目そうな学生だった。凛子の家庭教師をしている兄と将斗の都合がつかなかったとき、代理で来ていると凛子から聞いていた。文系も理系もできるらしく、だったらこの人ひとりで十分なのではと思ったりした。
高校三年の春、「オリジナルの『Rins Song』をピアノで弾き語りをしたい」と兄が言い出した。「この世の中には素晴らしい曲がたくさんあるのにわざわざオリジナル曲をやらなくても」と法学部の彼は言ったが、「だからやりたいんだ」と温厚な兄が珍しく感情的になっていた。
そんな兄の姿に根負けしたのか、坊主頭の彼はアコースティックギターを持って自宅にやってきた。
兄がピアノの練習をしていたのは小学校一年の頃までで、家にピアノはあったが壊滅的に下手だった。英文科の学生らしく英語の歌は流暢だったが、ピアノは聞くに堪えなかった。何度「もうやめてよ」と言ったかわからない。
けれど法学部の学生が「気長に付き合ってやってよ」と兄の肩をもったものだから、兄の執念深さに拍車がかかった。法学部の彼は眼鏡の奥にある瞳を細めて望に微笑みかけていた。坊主頭と銀縁眼鏡ははっきり思い浮かぶのに、名前が思い出せない。
あのときの録音が残っていたなんて――
「そういえばさ……この曲、ずっと家で練習してたよね。あの時ギターを弾いてた人、なんていう名前だったかな」
「ギター……?」
将斗は首をひねる。真っ暗な夜道に迷いなく車を走らせながら、口を開く。
「そんなやついたかな」
「ほら、法学部の学生さんだった人。坊主頭で、レンズの分厚い眼鏡をかけてた」
「ああ……東堂《とうどう》か」
そうつぶやいて急にハンドルをきったものだから、望はうしろにのけぞった。
「あの人、今どうしてるのかな。国家公務員を目指してるって言ってた気がするんだけど」
「さあなあ……卒業して以来、会ってないからな」
そう言うと将斗は口を閉ざしてしまった。車線も見えないような暗い住宅街の中をすいすいと走っていく。気まずくなって兄のピアノの話をしたけれど、彼は貝のように口を閉ざしてしまった。
久しぶりに会って忘れていたが、こんな時に無理やり話しかけると余計に苛立たせてしまう。あの頃は気まずくなれば数学の問題があったけれど、今は何もない。車のエンジン音に合わせてこっそり息をつく。すぐとなりにいるのに、彼との距離は四年前よりはるかに遠い。
聞いてはいけないこと――それはふたつあった。
ひとつめは家族のこと。自虐混じりで生まれ育った村や飲んべえでどうしようもない父親の話をしてくれることはあっても、質問に答えてくれたことはなかった。時々、同じ山に住む老人の話をしてくれることはあっても母親の話は一度もなかった。
ふたつめは望の友人、遊佐凛子とのこと――
「ねえ先生」
交差点に差しかかり、望は口を開いた。信号が赤になる。将斗はアクセルを踏んで車を加速させる。
「……なんだ」
長い間のあと、低い声が聞こえた。車内に兄の歌声がやわらかに響いている。
――The world will be shine if you are here
(君がいれば世界は輝いて見えるよ)
曲の中に兄の声が混じっている。つたないピアノを必死に弾いている。凛子が微笑んでいる。将斗も見守っている。無事最後まで歌えますようにと祈るような気持ちでいる。ギターの音色も聞こえる。
四年前のあの時以来、兄がこの曲を歌っているところを見たことがない。カーステレオから流れる音楽が記憶の底を揺さぶる。あの頃抱いていた苦い気持ちがよみがえる。友人が――笑っている。
「……凛子のこと、覚えてる?」
長い沈黙のあと、将斗は左手でタバコを取り出した。口にくわえて火もつけず、ハンドルを握ってじっと正面を見つめている。
「まぁ……な。忘れろって方が無理だろ」
「……だよね」
そうつぶやくと、彼は車を減速させた。バックミラーに延々と車が並んでいる。前方に黒いワゴン車、後方に白いセダン。前にも後ろにも進めない。将斗がいるこの狭い空間が凝縮しても、逃げ出せない。けれど前にも進めない。薄れかけていた記憶がのしかかる。振り払いたくて口を開く。
「先生が学校の先生にならなかったのは、やっぱり、凛子かな」
手をぎゅっと握って将斗を見た。 『Rins Song』のサビが流れだす。雨粒のようにこぼれ落ちるピアノの音色、兄の歌声、ギターの音。隣でじっと見ていた将斗。痩せた体をソファにもたせかけ、頬を赤らめて喜んでいた凛子。「朔太郎先生、ありがとう」と言った凛子のか細い声。恥ずかしそうに笑っていた兄と法学部の人、そっと凛子の肩を支えた将斗の優しい眼差しーー
彼女は高校のクラスメイトだった。何の縁か三年間同じクラスで、同じ大学を目指していた。おしとやかな雰囲気の中に弾けるような快活さを持っていた凛子は、聡明で人付き合いもよく、好きにならない方が難しかった。何人もの男子生徒が告白しては玉砕していた。「モテるのにもったいないよ」と言うと、「大事にしたい想いがあるから」と彼女は言った。それが何なのか問い詰めることもできないまま、受験生になり、将斗と出会い、凛子が病に倒れた。
急性白血病――余命半年だって、と凛子は言った。
「そう……だな。あれはけっこう堪えた」
信号が青から黄、赤に変わる。人気のない住宅街に赤い光が明滅する。
将斗はタバコに火をつけるとサイドガラスを開けた。煙がたなびいて車の外へ流れていく。将斗が何度も煙を吐く。視界が白く濁る。大学生活に忙しくすることで遠ざけようとしていた記憶が迫ってくる。
逃げられない、将斗からも――凛子からも。