欠けた満月の日
そんな焦りを感じながら、バッグから携帯電話を取り出した。家に着くまでに、兄の協力を仰がねばならない。
車が発進したので望はいつものクセで体をななめにした。かなり急なカーブなので体を右に寄せないと頭をサイドガラス側に持っていかれる。
けれど車は直進し、望の頭は不自然に右に傾いたままだった。
「何やってんの、おまえ」
ちらりとこちらを見る。望は携帯電話を手にしたまま、彼を見る。
「……先生こそ何してんの。送ってくれるなら今のところで右でしょ!」
四年ぶりに彼の車に乗ったというのに、条件反射のように体を傾けてしまったことが恥ずかしくて声を荒げた。
「知ってる」
雅斗は平然と言う。車は帰宅ルートを大きくはずれて国道二十五号を直進する。このあたりは脇道にそれても一方通行や行き止まりが多く、なかなか元の道に戻ることはできない。リクルートスーツのまま助手席に座ってしまった望は混乱する。
「こっち、俺の帰宅ルートだから」
ハンドルをゆっくりと動かしながら将斗は言う。何を言ってるのかわからない、どこに行こうとしてるのかもわからない、と責めたくなったが、車はかなり速度が出ているのでぐっとこらえる。
とにかく帰宅が遅くなりそうなことを母に連絡しなければ、と携帯電話のカバーを開けた。街の風景はどんどん変わり、繁華街を抜けて古い住宅の街並みが見えている。
携帯電話をタップしながら、そういえば四年前にもこんなことがあった、と思った。あの時は雨が降っていた。雨に濡れてぐしゃぐしゃに泣きながら、家に帰りたくないと言ったのは自分だった。将斗は黙って車を走らせてくれた。あの時も通った、この道――
「……どこに行くのかな」
少し冷静になった望は静かに言った。赤信号で車を停車させた将斗がこちらを見る。
「約束、叶えてなかったなって、思ってさ」
「……約束?」
携帯電話をバッグにしまって首を傾げる。受験シーズンに彼に言いつけられた約束事なら覚えている。毎日かかさず計算問題をやること、計算するときは消せないボールペンで書くこと、途中式を全部残すこと、数学の問題集をいつもバッグに入れておくこと、兄に心配をかけないように夜の九時までには家に帰ること。
「約束……ってなんだったっけ」
忘れてしまった自分を不甲斐なく思いながらも、言葉に棘が出ないように気をつけた。将斗はハンドルを握ったまま、じっと前方を見ている。
「忘れたならいいんだけど……」
低い声が車内に響く。望は戸惑う。受験生だった頃に先生と交わした約束、言いつけられたことではなく、彼が何かを叶えてくれると言った。受験が無事終わったら、がんばったごほうびが欲しいと言った。私が言った、きっと叶えてねと――
「……思い出した! 夜景!」
望が声を上げると、将斗は眉を下げて笑った。
「遅いよ。覚えてるの俺だけかと思った」
苦笑いをした将斗がアクセルを踏む。彼の言葉に望は胸を痛める。
「覚えてるもなにも、だったらどうしてあの時叶えてくれなかったの」
車が発進していることもおかまいなしに助手席から身を乗り出した。将斗は「おい危ないだろ」と目を開く。
高校三年の春、志望校に合格したことを伝えるため、兄とふたりで彼の下宿へ向かった。寝起きなのか髪がぼさぼさだったが、望の手を取って喜んでくれた。それから三人で食事に行った。兄と将斗は好きなものを食べさせてくれた。将斗も兄も本当に楽しそうに笑いあっていた。やっと自分も大人の仲間入りができると思った。
翌日、将斗は姿を消した――
合格祝いの「夜景ドライブ」は叶えられず、望は将斗の存在を記憶の奥底へ押し込めようとした。凛子のことも、あの大きな黒目も、名前を呼ぶあの声も――
「……悪いと思ってたよ、ずっと」
将斗の声がエンジン音にかき消される。「ずっと」という言葉が脳の根底に眠らせていた感情を呼び覚まそうとする。いなくなった四年間、ずっと、思っていた?
彼はハンドルを操作しながらサイドブレーキのあたりを探った。反射的に「タバコを探している」と思った自分が、また嫌になる。
望はこっそりとタバコのケースを手の中に納めた。彷徨っていた彼の左手があきらめたようにハンドルに戻る。
「今から叶えてくれるの? 約束」
将斗の顔の横でタバコのケースをふると、彼は急に車を路肩に停車させた。
「おまえ、隠してたな。おかしいと思ったんだ、いつもここに置いてるのに……」
望からケースを取り上げると、くちびるを尖らせた。車内のランプを点灯させて、またサイドブレーキのあたりを探る。束ねた鍵の下からライターを取り出す。
一服ついてサイドガラスを開ける。望がじっと見ていたのが気まずかったのか、ふいと顔をそらす。
「じゃあまあ、行くか」
自分から思い出させたくせに、と思ったが、理性とは別の閉じ込めていた感情が揺さぶられた。「よろしくお願いします」と言って、意思と関係なく上がろうとする口角を手で押さえこむ。
彼は早々とタバコを吸うと、携帯灰皿に押し込んでアクセルペダルを踏んだ。片側二車線の流れに車を入れてしばらくすると、ふと望を見た。
見ただけで何も言わずにまた正面を向いてしまったので、居心地が悪くなった。
「何?」
「いや、きれいになったなと思って」
彼の一言に心臓が爆音を上げた。シートベルトに締めつけられていたのが幸いだった。何もなかったら車の天井に頭をぶつけていたかもしれない。望はあわてて手櫛で髪をとく。
「なっ、何、急に! 今までそんなの言われたことない!」
「まあおまえ、お子様だったからな」
そう言って将斗ははにかんだ。喜べばいいのか怒ればいいのかわからなくなる。
混乱している望をよそに、彼は楽し気に笑った。ハンドリングも軽やかになる。
のぼせ上がった頭を冷やすために窓の外を見た。そこには延々と運動公園の外周が続いていた。舗装されたジョギングコースもこの時間では誰も走っていない。街灯が少なく、町を歩く人もいない。
国道を走る車はゆるやかに動いている。無数のテールランプを灯して暗闇を流れてゆく。白い乗用車がトラックを追い抜いていく。
ずいぶん遠いところまで来てしまった、と運転する将斗の顔を盗み見た。
***
古い街並みを抜け、車は一級河川沿いの道を走った。右手に河川が広がっているためか、街灯が左手側にしかなく、道路と河川敷の境目が全く見えない。将斗は慣れた様子でハンドルをきっているのに、望はいつ車が河川敷に落ちるかと心配ばかりした。胸の前で手を組んでいるのに気づいた彼が「何やってんの」と笑うので「落ちないように祈ってるの!」と声を上げてしまった。
将斗は車を減速させてカーステレオのスイッチを押す。
少しでも気を反らせたくて緑色に光るパネルを見つめていると、中に入っているCDの読み込み音が聞こえた。
車内に、美しいピアノの音色が響く。