欠けた満月の日
1.国道二十五号
銀色のロードスターが夜の国道二十五号を走る。
望は助手席に座っている。シートベルトをつかんで時々、将斗の横顔を見る。フロントガラスから差し込むテールランプの光を浴びて、目を細めている。
聞きたいことがある――そう告げると、将斗は「じゃあ乗っていけよ」と言った。拍子抜けするようなセリフに、足の力が抜ける。どんなに覚悟を決めて声を発したかわからないの、と考えていると、彼は早々に助手席を開けた。困惑する望に「家まで送ってく」と言う。四年の空白など何もなかったように、彼は運転席に戻る。エンジンをかけてずっと待っている。うしろからクラクションを鳴らされて、あわてて助手席に乗りこんだ。将斗は何も言わずに車を発進させる。
「何か用があったんじゃないの?」
チャコールグレーのコートを脱ぎながら望は言った。わざわざパーキングに停車したのに、何もせずまた発車させた。どういうことだろう。
「別にまあ、次でもいいから」
そっけなく将斗は言う。次ってなんだ、と苛立ちながら彼を見ると、将斗の口元に笑みが浮かんだ。
「聞きたいことが山ほどあるって顔だな」
ハンドルを握ったまま言って、くすりと笑う。言い当てられて図星やら嬉しいやらで口元が変な形にゆがむ。シートベルトを締めながら体に気合を入れる。
「なんでこの街にいるのか、いつからいるのか、どうしているのか、なんで用事をキャンセルしてもいいと思ったか、どうして私を乗せようと思ったか」
将斗が笑う。彼の笑顔に気持ちがゆるみ、矢継ぎ早に疑問が口から飛び出してくる。ハンドルを切る彼が声を出して笑う。子供のような自分が恥ずかしくなる。指を組んで、望は言葉を漏らす。
「……この四年間、何をしてたのか……」
情けないほど弱々しい声だった。まるであの星みたいだ、とついさっき見上げた夜空を思い出す。排気ガスに煙った、どんよりとした空に浮かぶ六等星――
「何から聞きたい?」
赤信号でブレーキを踏んでいたずらっぽく言う。
「今どこで何をしているんでしょうか」
わざとらしく敬語で聞くと将斗はまた笑った。まるで初めて会ったときみたいだ、と望は思う。
「質問、一個じゃないけど」
「なんでもいいから答えて」
はぐらかす気配を感じて望は身を乗り出す。彼がアクセルを踏む。
「……今は寺子屋やってます」
将斗もわざとらしく敬語を使う。けれどそこに隠された「寺子屋」という言葉に胸がきしむ。
「……塾、やってるの?」
「いや、塾っていうよりほんとに寺子屋。ひとり親の子供たちを見てる。まあ、普通の家庭の子もいるけど。親の財産ががっぽり入ったから、金の心配はないよ」
口の端を上げたままそう言う。望は彼の表情を取りこぼさないようにじっと見る。
一度は教職の道をあきらめた彼が寺子屋をやっていることにまず驚いたが、後半は嘘だと思った。彼の実家は小さな村にあると聞いている。少し変わった画家の父と仲があまりよくない、あんな小屋みたいな家に帰るつもりはない、とこぼしていたことがある。父親の話をするときはいつも、言葉の端々に恨みがこもっているようだった。そんな彼が素直に財産を相続するはずがない。
「また嘘つくんだ」
望が言うと、将斗は虚を突かれたような顔をした。
「ほんとだけど」
「前半が本当のことで、後半は嘘。財産がっぽりなんて信じられない」
また将斗が笑う。四年前とは違うわざとらしい笑顔に違和感を抱いてしまう。
「さすが望、よくわかってる。親の財産なんか継ぐかよ。昼間は真面目に働いて、夜に寺子屋をやってるよ」
そう言ってまだ笑う。居心地が悪くなる。
「昼間は何の仕事してるの」
「うんまあ、予備校で、浪人生に授業をね」
そう言った将斗は笑っていなかった。きっと本当のことなのだろう。
「おまえは、何してるんだ?」
「見ての通り、就活です」
望はリクルートスーツをまとった腕を伸ばして見せた。将斗がちらりとこちらを見る。
「こんな時期にか? もう卒業だろ」
「内定もらってるけど、ギリギリまで他も受けようと思って」
「スーツ着て就活って、一般企業でも受けたのか」
「そう」
正面を見たまま望は言う。心臓がいやな音を立てている。将斗の顔を見られない。
高校二年の冬、友人を介して将斗に出会った。当時彼は遊佐凛子(ゆさりんこ)の家庭教師をしていた。理系科目は将斗の担当で、文系科目の担当が偶然にも望の兄だった。
親友の家庭教師が自分の兄だなんてこんな偶然があっていいのかと、彼女の手を取って小躍りしているところに、将斗が入ってきた。当時大学三回生だった彼は、髪が短く強い意思の感じられる瞳をしていた。望と凛子を交互に見下ろし「どっちだ」と言った。望と凛子は顔を合わせて吹き出した。将斗は「なんで笑われてるのかわからない」といった様子で頭をかいていた。
しばらく笑ったあと、将斗にきゅっと睨まれた望は、すごすごと退散した。扉の閉まった凛子の部屋からは物音ひとつしなかった。
望を見据えたあの大きな黒目が、印象的だった。
しばらくして、今度は望の家庭教師として自宅にやってきた。兄の様子を見る限り、兄が妹の家庭教師にと親を説得し、家までひきずってきたらしい。彼は何故か兄の言うことに逆らえない様子で「わかったわかった」と何度も言っていた。望を見据えると、またきゅっと目を細めた。
自分の兄とは信じがたいくらい天然の兄と、近づくと放電しそうな雰囲気の将斗が仲良く話しているのは、不思議な光景だった。
「そういや朔太郎はどうしてる」
ハンドルを切りながら将斗が言う。
「その呼び方、どうにかなんないの? お兄ちゃん、もう小学校の先生だよ」
そう言いながら望は吹き出した。兄の名前は「朔也(さくや)」という。出会った頃から彼は兄のことを「朔太郎」と呼んでいる。「朔太郎は家にいるか」と聞かれ、誰のことを呼んでいるのかと思ったら、うしろに兄がいた。「朔太郎」と呼ばれた兄は満足げだった。凛子まで「朔太郎先生」と言っているのを聞いたときは本名はそっちなんじゃないかと思ったりした。
「そうか、小学校か。あいつらしいな」
将斗は笑った。目を細めて笑うその表情に、一気に時間が遡る。
兄も将斗も一回生の頃から中学校教諭になるための単位を取っていた。兄は順調に単位を取得し、その後通信制の大学で初等教育の免許を取った。将斗はその道を選ばなかった。望が大学に合格することばかり気にかけ、就職活動をしている様子もなかった。
「……ねえ先生、大学を卒業したあと、何をしてたの?」
思い切って口を開く。彼は黄色に変わった信号を振り切って車を加速させる。
「何って……まあ、いろいろとな」
対向車のヘッドライトが将斗の顔を照らす。色を失った頬に四年の歳月が浮かんでいる。
大きなT字路にさしかかる。信号が赤になり、車は減速する。ここを右折してしばらく走れば自宅につく。きっと将斗は問いに何も答えないまま、去ってしまうだろう。家に兄がいるなら将斗を引き留めてもらうよう協力してもらうか――