欠けた満月の日
番外編.ふたりの朔也
春と夏の境目――皆既月食の夜。
早々に仕事を終えた坂木朔也は山を登っていた。
最寄りのパーキングエリアまでは大阪から40分、山のふもとで車を降りてからもう一時間近く歩いている。降りたときは肌寒かったけれど、シャツの下にじんわりと汗をかいている。登山用の靴を履いてくるべきだったと考えながら、山道を登る。
腕時計を見た。18時を回っていた。18時40分までに到着しないと始まってしまう。どうしても最初から見たい、急げと息切れする体にむちうって山道をかけ上がった。
山頂に着く頃には、空は夕闇に変わっていた。澄みわたる空が徐々に青紫色に染まっていく。眼下の街に明かりが灯り始める。七年前も見たこの絶景が眼前に迫り、胸がしめつけられる。
「やっと見つけた」
大きな岩の上に腰かけた人物に声をかけた。崖の手前ぎりぎりのところでスケッチブックを広げている。
彼はゆっくりと振り向いた。
「朔太郎……」
将斗は言った。日中の熱をためてむせかえるような草いきれの中、ゆっくりと立ち上がる。朔也は激しく胸を打ちつける鼓動を押さえ込んで近づいていく。
「やっぱり来たな」
「どうして……ここに来るってわかったんだ」
黒髪を短くし、髭もきれいに剃った将斗が言う。相変わらず黒いポロシャツに擦りきれたジーンズ。強いまなざしも変わらない。けれど同じように七年分の年齢を重ねた彼に、懐かしさと憤りを感じる。
「月食の夜はここに来るかと思ってさ」
「……月食なんて年に何度もある」
「今夜は皆既月食なんだってな。滝川には特別な日だ」
そう言って満月を指差した。端の方から徐々に欠け始める。部分月食の始まりだ。
「あれは望なんだろ?」
朔也がそう言うと、少し間があって将斗が微笑んだ。「元気にしてるか」の問いかけに「あいつずっと様子が変だったからなあ。問い詰めてやったよ」とつぶやく。彼は真顔になった。朔也は代わりに微笑みかける。彼がにじりよる。
「……どこまで聞いた」
「全部、かな。父さんが話してくれたよ」
「……そうか」
将斗は夜空を仰いだ。星が降り落ちそうな空の端に、欠けた満月が浮かんでいる。
「おれだって、ずっとおかしいと思ってたさ」
軽くそう言って「まあ座れよ」と将斗の肩を引いた。彼はスケッチブックを岩の上に置いたが、かたくなに座ろうとしない。仕方ないので朔也だけ岩に腰かけ、彼を見上げながら口を開く。
「おれの遠い親戚にね、焦げ茶色の髪の人がいるんだ。肌の色も白くってさ、きっとあの人の血の流れを受け継いだんだって、父さんはいつも言ってた。だから信じるしかなかったんだ。全然似てないのにね」
眉を下げた将斗がこちらを見ている。そうだこういう顔、悲しげに目を伏せる表情、腹が立つくらい望によく似ている。その感情は飲み込むと決めている。
「おれは父さんも母さんも好きだった。違和感は拭えないけど、愛情はたくさんくれた。初めておまえの姿を見たとき、声をかけずにいられなかった。滝川はすごく愛想悪くて、声をかけても無視された。むきになって追いかけたよ」
「……そうだったな」
将斗は懐かしそうに頬をゆるめた。警戒心の強い将斗が気を許した人間にしかみせない表情だーー
「滝川は頭脳明晰で成績も優秀だった。授業中に質問された教授が舌を巻くこともあった。おれは誇らしかった。おまえと対等でいられることが。おまえと肩を並べて歩けることが。けれどなんでか懐かしい感じもして……あの時気づいたよ。父さんが講義に来た日……二人が話しているのを見て、ああ、滝川と血の繋がりがあるんだな、おれが感じた懐かしさは父さんの血なのかなって。愕然としたよ。おれはちっとも似ていないのに」
夜のとばりが下りる。街が薄闇の中で輝き始める。月明かりが将斗を照らす。
「あの頃は凛子ちゃんのこともあって、問い詰める気にはなれなかった。おまえが望の前から姿を消したとき、正直ほっとしたよ。ああ、これでくだらないことを考えなくてすむ。おれはあの家族の一員でいられる、そう思った。けどなあ、あいつがあんなことするとは思ってなかったからさ」
将斗の左脇のあたりを見つめた。望の話では、そうとうひどい怪我だったらしい。朔也はすばやく立ち上がって彼のポロシャツをめくる。将斗は仰天したような声を出す。「やめろ」と叫んでいるが朔也はしつこく裾を握りしめる。
「……悪かったな。こんな大怪我負わせて」
「いや……俺にも落ち度がある。守るなら、もっとちゃんと守るべきだった」
「……なんであんな風になっちゃったんだろな」
東堂とは必修科目の英語の授業で知り合った。真面目で気のいいやつだった。授業で疑問に思ったことも聞けば丁寧に教えてくれた。法学部の彼は国家公務員になるのが目標だった。親も親戚も、議員や弁護士、医者ばかりだと教えてくれた。それってけっこうしんどいな、と言うと「そんなことないよ」と彼は笑っていた。家族の経歴は彼の誇りでもあるらしかった。
大学四回生の四月、東堂は国家公務員総合職の試験を受けた。合格すればエリートコースまっしぐらだ、僕の家系はみんなそうなんだと言っていた。けれど二次試験で落ちた。六月の国家公務員一般職の試験も落ちた。彼はまだ他にも試験はあるからと前向きだった。
そんな最中、凛子が病に倒れた。東堂のことを心配している余裕はなかった。『Rins Song』の弾き語りはひとりでやるつもりだったのに、彼は参加すると言ってきかなかった。なぜか望は「兄が東堂に頼み込んだ」と記憶しているようだった。
東堂は九月下旬の試験に向けて追い込みの最中だった。人生がかかっている時期に誘うはずがない。あの頃はそんなささいな疑問を問い詰める余力もなかった。凛子が笑ってくれるなら、それだけでよかった。
彼は九月の国家公務員総合職の試験も落ちた。結果を待つ間、様々な自治体の試験も受けたようだったが、全滅だった。
受験生の望に付きまとい将斗が阻んだあの日から、連絡を取らなくなった。大学でも顔を合わすことはなかった。
「……あいつ、いいやつだったのにな」
「……そうだな」
赤黒く腫れた傷口を見ながら朔也が言うと将斗も答えた。大学を卒業して以来会うことはなくなったが、連絡先は知っていた。東堂が望をつけ回している、もし見かけたら守ってくれないかという頼みに彼は快く返事をしてくれた。東堂は執念深かった。翌年も、翌々年の試験もことごとく落ち、執念深さに拍車がかかった。邪魔をする将斗と朔也、望本人まで恨んでいるようだった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう――考えても答えは出ず、望と将斗が再会した。東堂に襲われた。こんな大怪我をさせてしまった――
月を見上げる。食の進んだ満月が朔也を見下ろしている。
「満月の日におれたちが揃って見上げてるって、変な感じだなあ」
「……どうして?」
「だっておれたち、二人とも朔也だろ?」
将斗は返事をしなかった。朔也はめげずに彼の肩を組む。