欠けた満月の日
「朔の日生まれっていう意味だよ。おまえは滝川将斗、おれは坂木朔也。望はおれの妹。それでいいじゃないか。滝川は妹の先生で、おれの親友だよ」
すぐ真横で将斗が目を丸くした。黒い瞳でじっと朔也を見たあと、笑い出した。
「なんで笑うんだよー」
「いやなんか……おまえらしいなと思って」
「おれなりに必死で考えたんだけど」
「そう……だな。それでいいか」
将斗は笑っていた。肩を組んだまま二人で笑いあった。いつの頃からか彼は満面の笑みを見せなくなった。凛子のことがあったからだと思っていた。それは違った。彼は知っていたのだ、自分が坂木朔也であるはずだったという事実を--
「なあ滝川、望に会いたいか?」
肩から腕をはずす。将斗は答えない。けれど目は離さない。こういうところが望に似ていてずるいと思う。
「望はおまえに会いたがってるよ」
そう言うと彼は視線をはずした。顔を隠すように後ろを向いて月を仰ぐ。ああそうか、あれは喜びの感情なんだなきっと、と朔也は思う。
「おまえは滝川将斗なんだから好きにすればいいんじゃないか?」
「好きにって何を」
「だから好きなように、だよ。望とどこでも行けばいい。ただし兄が口うるさいけどな」
将斗の肩が揺れた。あれはきっと笑っているな、よしよしとほくそ笑む。
「おまえ、口うるさいのか」
「そうだよ、門限は七時だ。必ず門限までに送ってくること」
「七時じゃ飯も食えない」
「五時に食べてすっとんで帰ってくるんだよ」
背中を向けたまま将斗は盛大に笑いだした。朔也も自分で言っておいておかしくなって、彼の肩に腕を回して笑った。将斗の笑いは止まらなかった。「腹が痛い」と言ってわき腹を押さえたので「いたいのいたのとんでいけー」とさすってやった。「俺はガキか」と言いながら、手で顔をかくした。朔也はこっそり手の隙間からのぞいた。
将斗は泣いていた。
思わぬ涙に朔也の涙腺がゆるむ。胸が押し潰されたように苦しくなる。凛子が息を引き取ったときとは違う胸の痛みだった。張り裂けそうで張り裂けない、ずっと胸の奥にあるくすぶりの塊を引っかき回し続ける痛みだった。
将斗は両手で顔をぬぐうと、スケッチブックを手にとった。
「朔太郎、おまえに見せたいものがある」
涙で湿った頬をゆるめて将斗は言った。満月はその姿をほとんど隠し、やわらかに彼を照らしていた。
***
朔也にあの絵を見せると、彼は泣いて喜んでくれた。「この六年、凛子ちゃんのことを忘れたことはないよ」と絵を抱えて泣いた。遠慮なく泣きじゃくるのに時々絵を見ては笑っていた。忙しいやつだなと思う一方で、望の泣き顔を思い出した。感情のありのままに泣くあの姿は兄譲りなんだなと思った。彼女の兄は自分ではなく、泣いている朔也だった。
朔也が絵を持ち帰ったあと、自室に入った。彼と凛子の絵を隠していたその奥から、古いスケッチブックを取り出す。ほこりをはらい落としてそっと開く。
七年前に描いた望のスケッチだ。
出会った頃、望は教え子の友人で、親友の妹だった。すぐに笑ったり怒ったり泣いたりと、感情がコロコロと変わるのが面白くてよく描き残していた。凛子や朔也の絵もあるが、日を追うごとに望の絵が増える。表情だけでなく、何気ない立ち姿などもたくさん描いた。
彼女が成人したらこの絵を見せようと思っていた時期もあった。
けれど、現実がひっくり返った。自分は自分ではなかった。教育実習をやっている大切な時期だったけれど、父を問い詰めた。彼は恨み言まじりに真実を言った。育ての親としての親愛の情は感じられなかった。向こうの親は黙っていると言った。勝手だと思った。恨んで憎んで何度も殺したいと思った。殺して自分も死のうと思った。
けれど望の笑顔を見ると気持ちは落ち着いた。父だと思っていた人間が父ではなかった、自分はこの家で生まれ育つべき人間だったのに、望と話すと心は平静を保てた。朔也はいつも変わらず明るい朔也で、ちゃんと愛情を持った人間だった。
彼らに真実を告げる機会もないまま凛子が病に倒れ、亡くなった。本当の自分をかくしたまま、時が流れてしまった。
望は毎日のように泣いていた。これ以上距離を縮めてはいけないと危機感がある一方で慰めてやりたいとも思った。東堂が望をつけ回していると聞いたときは生きた心地がしなかった。あの日も望は――泣いていた。
描いた絵が泣き顔ばかりになった。そっとスケッチブックを閉じる。
ささくれた畳に寝転んで目を閉じる。一体どこで間違ってしまったのだろう。教師として、兄として、何が正しくて間違いだったのだろう。どうすれば望に辛い思いをさせずにすんだのだろう。三年前の冬、声をかけたのがいけなかったのか、そもそも家庭教師を引き受けなければよかったのか――
手の甲に何かが当たった。山頂に持っていったスケッチブックだった。
体を起こしてページをめくる。この二年半のあいだに起きた月食の風景画が続く。月食は昼夜関係なく起きる。青空にうっすらと浮かぶ月は雲の欠片にしか見えないこともある。望と見た皆既月食は黄金色に輝く見事な真円からの始まりだった。
何かがはらりと落ちた。月明かりが差しこむ部屋の中で、縦に長い紙切れをひろう。
「月夜の……絵画……展」
満月が描かれたその下の文字を読み上げた。以前、朔也と一緒に行ったことがある美術館だった。1日限定公開の文言に興味がそそられる。けれどこんなものを挟んだ記憶がない。チケットを持つ右手の中指の腹に何かが当たった。ゆっくりと裏返す。
裏にはふせんが貼ってあった。
<もう一枚は望が持ってる>
あいつめ、と思った。苦笑しながら鼻の奥が痛くなった。まぶたが熱くなったが涙は飲み込んで喉の奥に流した。
満ちる月が将斗を照らす。
朔也と望の優しい笑顔を思い出しながら、そっと目を閉じた。
(終わり)