欠けた満月の日
テレビや書物で聞くことはあっても、実際にやっている人の話を聞くのは初めてだった。将斗は羽虫の舞っている裸電球を見つめる。
「母さんは激怒した。どうしてそんなに疑うのかと。確かにあなたの子供だと、そんなことを言ったらしい。けれど親父は正気じゃなかった。泣いてる母さんに向かって怒鳴り散らしながら検査結果を見せた。俺は……どちらとも血縁関係になかった。母親は現実を受け止めようとした。どこかで入れ違いがあったのかもしれない。けれど今日まで育ててきた。紛れもなく自分の子供だと。親父はその考えを受け入れられなかった。どの時点で入れ違いが起きたのか、徹底的に調べた。母さんが死んだあと、気が狂ったように写真をひっくり返した。産院から退院した時すでに、黒髪の俺だった。親父は産院に殴りこんだ。その時……おまえの両親が来ていた」
吐き出すようにそう言うと、彼は身を縮めた。傷口が痛むのか、顔をゆがめている。望は出血しているところに触れないように体をさする。「先生、もういいよ」と言ったが彼は首を横にふった。
「……おまえの両親も息子が全く似ていないことを不思議に思っていたらしい。息子を疑ったまま生活するのは嫌だから遺伝子検査をして、産院に何度も足を運んでいたそうだ。親父とは……受付で鉢合わせた。おまえの父親を見た瞬間に、俺の父親だと思ったと言ってた。それから産院に事情を聞いた。取り違えることなんて、現実にあるのかと」
「取り……違え」
望の声が空虚に響く。兄の薄茶色の髪を思い出す。望は母によく似ていると言われる。けれど確かに兄は誰にも似ていない。けれどそんなことはよくあることだと思っていた。生まれたときからいる兄が、自分の兄だと信じきっていた。
「俺と朔太郎が生まれた日は新月の大潮で……分娩室は大混乱だったらしい。出産直前で分娩台に乗れたら運がいい方、待機室で産むように指示された妊婦や待合室にシーツを引いて出産した人までいたそうだ。医者も助産師も足りない中で、赤子は待ってくれない。命の危険のある妊婦の介助をしている最中に次々と生まれてくる。赤子の清拭のあとネームバンドをつける際に、取り違えなど絶対ないように細心の注意を払っているつもりだったが……可能性はゼロではないと……言われたらしい」
将斗は望の手を取ると眉を下げて微笑んだ。
「俺は朔也で、あいつは将斗だった。俺はおまえの……兄だった」
その事実が、望の胸に突き刺さる。取り違え――そんなことはあってはならないけれど、現実にあるのだとしたらどうやって受け止めたらいいのだろう。彼のことは家庭教師以上に、兄の友人として慕っていた。将斗の持つ地場に惹きつけられてやまなかった。恋心だと思っていた。けれど――違った?
「両親たちは改めて遺伝子検査をした。俺とおまえの両親、朔太郎と俺の父親との親子関係が認めらえた。俺の親父は包み隠さず全部話すと決めた。けれどおまえの両親は口外しないと言っていた。血のつながりがなくても朔也は自分たちの息子、その絆は決してなくならない……とな」
「お兄ちゃんは……そのこと知らないの?」
「知らないはずだ。一生涯言うことはないと言ってたそうだから」
「そのことを……先生だけが知ってた……?」
「……そうだ」
将斗の黒い瞳に光が差した。惹かれてやまなかった揺るぎない瞳だった。望は彼の手を握り返す。彼と過ごしたわずかな日々を思い出す。
彼はいつも変わらず望の先生だった。凛子と望が一緒になってふざけた末に、兄に向かって「全然似てないんだし血がつながってないんじゃない」などと酷いことを口にしたこともある。けれどそれはいつもの兄妹喧嘩だった。またやってるよと凛子も将斗も笑っていた。あの頃、将斗はいったいどんな気持ちで私たちを見ていたのだろうと思うと、胸が締めつけられる。
「朔太郎はおまえの兄貴だった。言ったところでその現実は変わらないと思った。言えばおまえにもう会えなくなるかもと思った。けど、その一方で言えば朔太郎と遊佐は結ばれるんじゃないかとも思った。妹の友人だからと気負わず、遊佐も友人の兄ではなく他人として、朔太郎に想いを伝えられるんじゃないかと思った。そうやって……迷っている間に……遊佐の命は消えた」
消え入りそうな声でそう言った。将斗の瞳が涙でにじむ。彼の瞳にたまった雫を見て望の胸も熱くなった。
「……教職の道をあきらめたのは、俺の親父もおまえの父親も、同じ職業だったからだ。せまい世界だから、またあの人と鉢合わせることもあるだろう。そのとき朔太郎がいたらどうするつもりなのか、答えがでなかった」
「……お兄ちゃんに、譲ったの?」
「……いや、それは違うな。俺より朔太郎の方がよっぽど向いてると思った。あいつの思いやりや情の深さに救われるやつが……きっとこの先たくさんいるだろうと思ったよ」
そう言って将斗は袖で目元をぬぐった。「俺もそうだからな」とつぶやく。袖で顔を隠したまま、ため息をつく。
「俺は何もかも、人のせいにして生きてきた……生まれた日を、取り違えた人間を、気づかなかった両親を、勝手に死んだ母親を、父親らしいことは何もしてくれなかった親父を、同じ学部に来た朔太郎を、偶然居合わせたあの人を――けど……おまえに出会えたから」
将斗はゆっくり体を起こした。痛みが走ったのか顔をゆがめた。それから両手で望の手を取った。こびりついた血が乾いてかさついていた。
「俺は俺でよかった。朔也じゃなくてよかった。他人としておまえに出会えたから知れた喜びがたくさんあった。他人だからしてやれたことがたくさんあった。今は……本当にそう思うよ」
優しい微笑みだった。同じ黒髪をした将斗が目を細めて笑っていた。視界がぼやけた。握った手から体温が伝わってきて目頭が熱くなった。
誰を責めてもいいと思った。自分も責めてほしいとも思った。彼が誰にも言えない苦しみを抱えているとき、受験生という立場に甘えて青春を謳歌していた。凛子が生きていた頃の、輝かしい記憶だった。そこにはいつも将斗がいた。彼は笑っていた。この世に生を受けた、そのことに苦しみながら笑っていた――
将斗の手から力が抜けたかと思うと、ふらりと横に倒れた。紙がはがれ落ちるような動作だった。
「ただひとつ悔いがあるとしたら……おまえに……兄らしいことを……してやれなかったことかな……」
敷布団に頭をもたげたまま、かすれる声でそう言った。手を握ったまま将斗の顔をのぞきこんだ。瞳の焦点が合っていない。
敷布団にべっとりと血がついてる。白いシーツの掛布団にも、真っ赤な血がついていた。背筋が凍るのを感じなら、涙をこらえようとした。将斗の腕の下に手を入れて、ゆっくりと寝かせようとする。予想外に重く、腕が震える。落とさないように慎重に抱える。
「いっぱい、してもらった。先生に、たくさん助けてもらったよ」
言葉と一緒に涙がこぼれ落ちようとする。鼻の奥の熱い液体を飲み込んでこらえる。将斗のぼんやりとした目が動く。
「望……ほんとに……?」