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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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欠けた満月の日

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5.望と朔



 将斗の手に少し体温が戻ってくる。望はそれを両手で包んでから、ゆっくり離す。

「逆って……どういうこと?」
「俺が朔也で、朔太郎が将斗のはずだったってことだ」

 低く力のある声だった。胸の一番奥底で振動する。言葉の意図が汲めず、頭の中で何度も反芻する。将斗が朔也で、兄が将斗――

「……名前が、逆だってこと?」
「そうだ……ついでに家族も逆だ」

 将斗は目を細めて望を見ていた。外から梟の鳴き声が聞こえる。将斗の言うことに理解が追いつかない。心臓が嫌な振動を始める。大きな獣の歩みのように侵攻してくる。

 望がぎゅっと手を握りしめていると、将斗が息を吐いた。体中にたまった悪いものを吐き出すような呼吸だった。

「親父のアトリエを見て気づいたと思うけど、俺は両親に全く似ていない。ガキの頃はよく、川から拾ってきた子どもじゃないかってなじられたよ」

 将斗が黒い髪に手を入れる。

「こんな黒い髪……親戚には一人もいない。両親含めてみんな薄茶色の髪に、色素の薄い瞳をしている。母親がよそで作ってきた子供じゃないかとか心ないことも言われた。成長するにつれて周りの大人の言葉や冷たい視線の意味がわかるようになった。母さんは気にすることじゃないと言ってた……でも俺は知りたかった。どうして一人だけこんな黒い髪と瞳なのか」

 将斗は髪に入れていた手に力をこめる。けれどすぐに緩めてしまう。

「村田のじいさんは言ってた。おまえがどこの何者だろうと、あの両親の息子だと自信を持てと。胸を張って生きろと。……今思うと、じいさんは知ってたんだろうな」

 そう言って、息を吐いた。視線が反れる。望はじっと将斗を見つめる。首がゆっくりと動いて黒髪が頬にかかる。

「大学の講義に、朔太郎の父親が来たことがある」
「……その話は聞いたことがあるよ」

 望が口を開くと、彼は少し頬をゆるめた。

「当時、中学校の教頭をやってた朔太郎の親父がどんな人なのか……興味があった。おまえも朔太郎もびっくりするぐらい真っ直ぐで人を疑うことを知らない。どうやったらこんな風に育つんんだろうっていうひねくれた好奇心だ」

 そう言って自嘲気味に笑った。いつもの将斗の愛情のある皮肉だと思うと、望も腹の底がくすぐったくなる。

「学部中で噂になってて、講義の前に偵察しに行くやつまでいた。朔太郎は恥ずかしそうにしてた。自慢したっていいのに、俺はあいつのそういうところが好きだった」

 父が兄と将斗の通う大学に講義に行く話は、夕食の席で聞いた。父は慣れているのか何気ない会話の流れでその話を出したが、兄はうろたえていた。恥ずかしいから講義を休もうかなという兄に対して、なんでだ、と父は不思議そうにしていた。

「教授の部屋に様子を見に行った学生の様子がなんだかおかしかった。会話もしたことのない連中がジロジロと俺たちを見てくる。朔太郎の親父が来るのがそんなに物珍しいのかと思った。こそこそ言ってるが興味はなかった。けどその後、朔太郎の親父と廊下ですれ違った。……あいつらの視線の意味が分かった」

 将斗は胸のあたりを指で探った。望から視線をはずして裸電球を見つめる。いつのまにか小さな羽虫が寄ってきている。

「『坂木』の名札をつけたあの人は……俺と瓜二つだった」

 低い声が部屋中に響く。四方の襖にあたって跳ね返り、響きは膨張する。羽虫の音が混ざっていく。耳の奥に突き刺さる。鼓膜に当たって反響して増幅する。時が停止した部屋の中で彼の視線を感じる。

「……お父さんが?」

 望は声をふり絞った。父と将斗が似ている――そんな風に考えたことはなかった。確かに黒髪で黒い瞳だけれど、ヘアワックスでまとめた黒髪はずいぶん後退している。若い頃に比べると目つきも優しくなった。優柔不断な考えを許さず、どんな時も理路整然とした物の考え方で息苦しく思った時期もあったが、近ごろはずいぶんと物腰が柔らかくなった。兄も私も、将斗と父が似ているなんて話題は出たことがない。

「あの人を見たとき……息が止まるかと思った。年は離れているけれど同じ直毛の黒髪、真っ黒の瞳。骨格も鼻の形も同じだった。学生どもがざわついていたのはこのことかと思った。自分の親よりよっぽど似ていた。あの人も俺をじっと見て動こうとしなかった。時間が経って聞こえた声も……録音した俺の声だった」

 呼吸をせず早口に将斗は言った。言い終わってからゆっくりと息を吸った。掛布団の下の腹のあたりが上下する。望は両手を握ったまま、動けない。 

「そのあとは普通の会話だった……自分は息子さんの友人で、娘さんの家庭教師をしています、お会いできて光栄です、そんな感じだ。向こうも多少の動揺は見えたが、初めまして、子供たちがお世話になります、と手を差し出してきた。他の学部生もあわただしく行き交う廊下で、その手を握った。……とても他人とは思えなかった」

 そう言って将斗も手を組み合わせた。望は息を飲んだ。その様子に気づいたのか、将斗は少し口元をゆるめる。

「おまえや朔太郎が俺とあの人の容姿について、何か言ってくることはなかった。それが何よりの救いだった」
「……だって、お父さんと先生が似てるなんて、一度も思ったことない……」
「ずっと一緒に暮らしてたらそうなんだろうな。けど俺は他にも気になることがあった。俺の母親の絵……見ただろ」
「……うん」
「物心つく前に亡くなったから、どんな人だったかはっきりとは覚えていない。親父が描いたあの絵の母親が、俺の記憶する母さんだった。淡い栗色の髪、薄茶色の瞳、真っ白い肌……なんであんなに朔太郎に似てるのかって、おまえも思っただろ」

 望は目を見開いた。アトリエに置かれていたあの絵――深碧色の背景に描かれた女性の温かなな眼差し。あの人物を、はじめ兄だと思った。けれど違った。将斗の母親だった――

「おまえの母親にも会ったことがあるが……朔太郎は家族の誰にも似ていない。おまえも母親も父親も、みんなストレートの黒髪、黒い瞳。けど朔太郎はそのことを欠片も疑問に思っていない。俺とは真逆だった。帰郷して親父を問い詰めた。それが大学4回の春の話だ」

 将斗が大学4回生の春、望は彼に家庭教師として家に来てもらい始めていた頃だった。おっとりとした兄とは真逆のタイプの理工学部生、物事を白と黒に分けなければ気が済まず、事あるごとに翻弄され、次第に惹かれていったあの頃――

「……俺と朔太郎は……出生時に取り違えられたらしい……」

 将斗の声が物悲しく響く。いつも強気の、少し強引なくらいの将斗の、はじめて聞く声だった。

「……俺が全く両親に似ていない、そのことを親父はかなり気にかけていた。母さんは先祖に黒い髪の人がいるかもしれないから問題ないじゃないと言ってなだめたらしいが、それが裏目に出た。親父は母さんの浮気を疑ってた。興信所に依頼して、街に出るとき、母さんを尾行させてた。……でも何も証拠は出ない。苛立った親父は俺たちに血縁関係があるか調べるため、こっそり遺伝子検査を依頼した」
「遺伝子……検査」
作品名:欠けた満月の日 作家名:わたなべめぐみ