欠けた満月の日
井戸の西側に小道を見つける。地面に石を埋めたあとはあるが、長年手入れされていないのか、ほとんどが土に埋もれていた。山頂と違って雪は溶けている。草も枝も伸び放題、進行方向に光はない。望は意を決するように生唾を飲み込む。首筋に襲ってくる冷気に負けないように首を振る。懐中電灯で先を照らす。
迷わず、一気にその道をかけ降りて行った。
***
「おや珍しい。女の子のお客かい」
しゃがれた声と共に白髪交じりの老人が姿を見せた。沢のそばにある村田の家にはインターフォンがなかった。雨風にさらされた「村田」の表札の辺りを散々探したが、あきらめて思い切り引き戸を叩いたのだ。急な坂道をかけ下りたせいで空気が喉の奥に張りついている。
「あの、柿山の頂上に怪我人がいるので、救急車を呼んでもらえませんか!」
望がかすれた声を上げると、ずんぐりむっくりの体に毛皮のようなものを羽織った老人が目を丸くした。
「あそこまで登ったのかね」
「はい。あの私……滝川将斗さんの知り合いで……」
「おお、マサ坊の連れ合いかね」
顔一面を覆う白い髭に手を入れながら村田が言う。「連れ合い」という言葉の意味を考える。いつものクセで携帯電話を取り出しそうになって、やめる。ニュアンスはわかるが追求してる場合じゃない。
「受験生の時に滝川先生に数学を教えてもらったんです」
「ほうほう、生徒さんかね。マサ坊も偉くなったもんだ」
「あの、その怪我人が滝川先生なんです。山頂は携帯がつながらないから、村田さんに助けを求めるように言われました。どうかお願いします」
望が頭を下げると、村田は「子供の頃から変わっとらんな」とつぶやく。座敷に上がろうとする背中に「ものすごく血が出てるんです!」と声を上げた。村田の動きは相変わらず緩慢で不安にかられる。
「よしよし。電話をかけたら、柿山まで行くから待っとれ」
温かな響きだった。どこからか炎がはぜる音が聞こえた。外は零下なのに天井に梁がめぐらされたこの家は古く暖かだった。
村田は土間から背負子を持ってくると軽々と背負った。囲炉裏の火を消し、外に出る。
顔中皺だらけの村田は70才前後に見える。けれど山を登る足取りは軽く、望は必死になって追いかけた。来た道とはまた違う道なき道を行く。息が切れて心臓が爆発しそうになっても追いつけない。望はそこらにある草や枝にしがみつきながら酷く荒れた山道を登っていく。
「連れ合いの方、マサ坊は元気にしとるかね」
村田はくるりと振り向いて言った。転ばないように足元ばかり見ていた望は激しく呼吸を繰り返しながら顔を上げる。
「……出血しているので、顔が真っ青になっていました」
「いや、怪我をする前の話だよ」
「……前、ですか」
「あんたさんに会った時、元気そうだったかね」
そう言われて、将斗に遭遇した時のことを思い出す。車のひしめき合う国道、ビルの間に瞬くネオンサイン、街灯に照らされる横顔。
「……会った時は、ちょっと疲れてるみたいでした。けどこの山に登って月を見上げた時はとても楽しそうでした」
うつむいた望の手を村田が引く。キャッチャーミットのような分厚い手のひらが望の体を引きあげる。村田は月を仰ぐ。
「満月は終わりと始まり、欠けて満ちる月は新たな旅立ち」
淡い月の光が彼の顔を照らす。ゆっくりとかみしめるように口にした言葉を、望も頭の中で反芻する。
「終わりと始まり……」
「マサ坊の父親がよう言っとった。あれは生粋の画家だったな」
ふくよかな頬をゆるめてそう言った。望はアトリエにあった絵を思い出す。将斗の父親らしき自画像と、母親の絵があった。色素の薄い瞳に薄茶色の髪のショートヘア。月に照らされたような淡い微笑み――
「急ぐか」
そう言って村田は足を速めた。望も必死になって駆け上った。何度もその背中を見失いそうになったが、その度に彼は立ち止まってくれた。けれど降り返らなかった。刻一刻と影を増す月が望たちの行く先を照らしていた。
***
「おまえさんは何度ほど落ちたら気が済むのかね」
地面に横たわっている将斗を見るなり、村田はそう言った。彼の姿を見て安心したのか「ここからはまだ二回だけど」と将斗は力なく笑って返した。望はかけよった。顔色が先ほどにもまして悪い。出血した状態で零下の山頂にいるのだ。このまま命を落としてしまったら――と不安にかられていると、将斗が口許を動かした。
「……じいさん、ほんと悪い。この年になっても迷惑かけて」
「柿山の神さんがおまえさんを助けたんだ。さ、ここにいちゃ凍え死んじまう。痛いかもしれんが我慢だ」
村田は出血しているところを確認する。腹に巻き付けているもう一枚のブルゾンを開いた。白いシャツが切れ、べったりと血がついている。外気にさらされたわき腹からはゆっくりと血がにじみ出している。村田は前にかけていた鞄から透明の瓶を取り出した。傷口にゆっくりと水をかけて白いさらしで血を拭い取った。将斗がうめき声を上げる。
将斗の背中に手を入れて手早く包帯を巻きつける。見ているのが苦しくなるほど痛みに顔をゆがめている。村田はきつく包帯を縛りつける。
「傷はそれほど深くはない。不幸中の幸いだったな」
村田はかけ声と共に将斗を抱えあげた。背負子に乗せると荷縄で手際よくくりつけ、驚くほど軽々と背負った。将斗は力なく首を垂れて村田に身を預けていた。
「……もう一人、沢に落ちたやつがいる」
「マサ坊を刺したやつかね」
「……そうだ。多分生きてる。様子を見てきてほしいんだ」
「助けたらまた襲いやしないか?」
「……そうかもな」
消え入りそうな声でそう答える。村田は彼を背負ったままじっと立っていた。
「助けるのも見捨てるのも、いいとは思うがな。おまえさんはどうなんだね」
「……もっと早くあいつを止めてたら、こいつに辛い思いをさせずにすんだかと思うよ……」
将斗は望を見た。黒髪は乱れて顔に覆い被さっていた。髪に隠れた目元をぎゅっとしぼって望を見ていた。心臓が握りしめられたように苦しくなる。
「おまえさんの命がつながったら、見に行ってこよう」
そう言って村田は歩き始めた。うなだれた将斗の顔はよく見えなくなった。月は半分ほど欠けていた。夜の闇に目が慣れたのか、影になっている部分も見えた。目を凝らせばうっすらと星が見えた。命がつながったら――その言葉の重みを感じながら村田のあとについていった。
***
将斗の実家に着くと、村田は彼を玄関の上がり框に座らせた。体に力の入らない彼を望が支える。村田は土間に入ると手早く発電気を稼働させて部屋に上がっていく。カセットコンロを点火させる音と、どこかの襖を開ける音が聞こえた。他人の家なのにずいぶん手慣れている。
「じいさん……この家の管理人なんだ……俺と親父が家を出てからもずっと手入れをしてくれてる……この山の主みたいなもんだ。一生頭が上がらないよ」