欠けた満月の日
東堂が獣のような顔をしながら腕を振りかぶる。将斗の頬を殴る。将斗はその手をつかんで離そうとしない。わき腹から血が染み出す。そこへ東堂が反対の手で腹を殴る。うめき声を上げた将斗の体が脱力する。
東堂が将斗の左わき腹を狙い、渾身の蹴りを繰り出した――
その時――
二人の姿が茂みの向こうに消えた。東堂の叫び声と木の枝を激しく折る音が連続した。夜風が葉をざわめかせた。それきり音は聞こえなくなってしまった。
「……先生?」
望は泣きはらした顔を拭いながら恐る恐る茂みをのぞきこんだ。
そこは崖だった。闇のかなたから沢の音が聞こえる。
「嘘でしょ……」
手の震えを押さえて懸命に叫ぶ。「先生ーっ!」と繰り返す声が反響して何重にも重なる。涙がこぼれそうになるのをこらえながら懐中電灯で崖を照らす。落ちないように手で地面を確かめながら移動し、はいつくばったまま何度も叫ぶ。
崖の下から冷気がせり上がり、喉の奥が凍る。無理やり唾を飲みこむが、思うように声が出ない。自分の吐く息だけが情けなく落ちていく。
地面についている手が氷のようになってる。爪に泥が入っている。手が震えて懐中電灯がうまく持てない。けれど光がなくなったらここには戻ってこれないかもしれない、と思うと離せない。
手のひらを合わせて息を吐きかける。温めた手で懐中電灯を握りなおす。将斗が持たせてくれた小型の懐中電灯。体温を保つブルゾンも彼が貸してくれたものだ。どうして持ち主がいないの――
そう思った時、少し離れた茂みから物音がした。今になって野生の生き物と出くわしたらどうしようと不安になる。先ほどまでこの山で暮らした将斗がいたから、かけらも怖さを感じなかった。物音が東堂だったら、一体どうすればいいのだろう。助けてくれるものは誰もいない。
そう恐怖に身を縮めていると茂みから手が出た。崖のふちにつたう木の根をつかんでいる。血で染まった人間の手――
「けっこうやばかったな」
そう間抜けなことを言って姿を見せたのは、ブルゾンを羽織った将斗だった。望は涙腺が崩壊するのを何とか食い止めて、彼の手を取る。
引き上げようとしたがその力は及ばず、彼は自力で崖から這い上がってきた。器用に断崖のふちに足をかけ、丈夫そうな木の根をつかんでよじのぼる。
「ああー疲れた.......」
望のいる地面にたどり着くなり、ごろりと寝そべった。望はこぼれ落ちる涙をとめることができず、泣きながら将斗の顔をのぞきこんだ。彼はそっと手を伸ばして望の頭をなでる。
「この真下にでっかいくぼみがあってな、ガキの頃落ちたときは、そこに自生してるでかい木の枝に助けられた。まだあったみたいで、助かったよ」
「……あの人は」
「東堂は沢に落ちた。昔からここは危ないんだ。村の人間だけじゃなくて観光客も何人も落ちてる。まあ……死にはしないよ」
彼の頬がゆるんだのを見て、胸をなで下した。先ほどまで殺したいと思っていたのに、死んだら将斗のせいになるのかと思うと、居心地が悪かった。
「望……悪いんだけど、俺、動けないわ。助けを呼びにいってくれないか」
血も止まらないし、と将斗はわき腹を押さえた。血はブルゾンの4分の1を赤く染めている。
「わっ……わかった! すぐに……」
そう声を上げながら携帯電話を取り出した。119番を押して通話状態にするが、つながらなかった。
「圏外……」
「こんなところでつながるわけないだろ。救急車も上がってこれないしな」
そう言って笑う将斗の顔から色が失われていく。望はあわててブルゾンを脱ぎ、なんとか止血できないものかとブルゾンを将斗の腹に巻き付ける。
将斗は笑って、望の頭に手をおく。呼吸が荒い。
望が泣きそうになっていると、彼は辛そうに起き上がって一点を指さした。
「あの光……わかるか。沢のほとりにある村田のじいさんの家だ。あそこまで行って110番してもらえ。救急車は俺の家の辺りまでしか上がってこれないし、落ちた東堂も回収してもらわなきゃいけない。柿山のてっぺんに滝川の息子がいると言えばわかる……行けるか?」
そう言って望の手を握る。手のひらから熱が失われている。望はこくりとうなずいた。
「行ってくる! 絶対、助けるから!」
そう意気込みながらも、望は夜の森の怖さを知らない。あの生き物がうごめく真っ暗闇を一人で走ることを考えるだけで背筋が凍りそうになる。けれど将斗を助けたい、その一心だけが縮み上がりそうな足を動かす。
懐中電灯を手に、将斗から道順を聞く。
「来た道をひたすら真っ直ぐだ。俺の家のそばに井戸があって、そこから西に向かう小道があるからそこを降りろ。降りればすぐに見える」
口調はいつもの将斗だった。理路整然として迷いのない言葉だった。けれど顔の色は失われ、浅い呼吸が続いている。
「行ってきます!」
闇に飲み込まれそうな体を奮い立たせ、望は坂道をかけ降りた。絶対に助ける、その思いだけが全身にエネルギーを送る。道なき道を辿りながら何度も不安が襲ってくる。自分が迷ってしまったら将斗は助からないかもしれない――
木々の間から夜空を仰ぎ見た。欠けてゆく満月が望を見下ろしている。満月は欠ける、けれど時間が立てばまた満ちる。
どうか望月、今夜だけは先生と私を見守ってと祈りながら獣道をかけ降りていった。
***
雪の残る道を無心に走る。薄く雪をかぶった地面のおかげで、将斗が歩いた足跡が残っている。大きな登山用の靴と、ひ弱いパンプスの跡。延々と続くその跡を時々踏みにじるような足跡を見つける。東堂のものかもしれないと思うと、再び憎悪の念に焼かれそうになる。
沢に落ちたという彼が、もしかするとすぐに這い上がってきて動けない将斗を襲うかもしれない。そんな恐怖に襲われ、望は足をもつれさせた。急な獣道でからまった足はなかなか言うことを聞いてくれず、望は地面にひっくり返る。両膝に激痛が走る。とっさについた手のひらがすりむけている。
いつもの自分ならここであきらめていただろうと思った。人に頼ることになれ、挑戦することを忘れ、平穏な日々の中で怠惰に生きていたこの体――
望は歯を食い縛り立ち上がった。黒いパンツに泥がついたのもおかまいなしに走り出す。家の井戸のそばに西に向かう小道、降りてすぐ、村田のおじいさん、柿山のてっぺん――そう繰り返し呪文のように唱えた。受験生の頃、凛子と一緒に唱えた数学の公式のように。
将斗の家の敷地に着く頃には息が上がっていた。酸素を吸おうと上下する肩をゆっくりと落ち着けていく。右手に持った懐中電灯が汗で滑り落ちそうになって、あわててコートで汗をふく。
広角にして辺りを照らすと、メタリックシルバーのロードスターの他に、ホワイトカラーのセダンが停車していた。将斗の車と違って、敷地内の井戸や古い鶏小屋、荒れた畑の規則を無視するように駐車されている。