欠けた満月の日
4.背負子
雪の残る地面を男が踏みしめて近づいてくる。
「望ちゃん、僕が助けにきたよ」
望はとっさに懐中電灯で男を照らした。顔じゅうの肉を寄せ集めて不気味に微笑んでいる。手には刃物を持っている。刃先が錆びて赤く染まっている。
「僕は望ちゃんを守る正義のヒーローなのにさあ、滝川ほんっと邪魔だよねえ」
ナイフを振りかざしたまま将斗に歩みを進める。将斗はわき腹を押さえたまま中腰になっている。望はとっさに彼の前に立つ。
「……東堂さん? 本当に東堂さんなんですか?」
「あれえ? 望ちゃん、僕のこと忘れちゃった?」
そう言って両腕を大きく広げる。望は懐中電灯の光を拡大して東堂にかざす。
望が知っているのは、坊主頭に銀縁眼鏡のこざっぱりとした法学部生の東堂だ。今目の前にいる、蓬髪の男と同一人物とは信じがたい。
ナイフの刃先から血のようなものが滴り落ちる。そのぬめるような赤色に背筋に寒気が走り、将斗の方を見た。
左のわき腹に当てる手が血に濡れている。全身を巡る血液が逆流しそうになった。思わずかけよると、将斗は望の体を押した。
「逃げろ……あいつの狙いはおまえだ……」
呼吸が荒くなっている。吐く息が熱く、真っ白の吐息が将斗の顔を隠す。
「私……? どうして私なんか……」
「高校三年のとき、おまえを襲おうとしたのは東堂だ」
将斗は足摺をしながら東堂ににじりよった。手で押さえているわき腹が真っ赤に染まっている。心臓が嫌な音を立てる。耳の奥から脈動が聞こえる。将斗の血を止めたい、どうにかしたいのに体が震えて動かない。
「やだなあ襲うなんて。僕は望ちゃんを見守ってただけだよ」
「さっきまで俺の車に張りついてた白いセダン、おまえだろ」
将斗が睨み付けると、東堂は口元に笑みを浮かべた。髭に覆われた口元が動く。
「気づいてた? 県境をこえたあたりからまこうとするから焦っちゃったよ。車線規制してたし、おまえの車にGPSをつけといたから助かったけどね。ていうか、望ちゃんをストーキングしてたのは滝川の方だよね? 僕が勇気を出して望ちゃんと話そうとするたびに、邪魔しやがってさあ」
憎悪に満ちた声が響く。望の足は凍りついたようになって動かない。ストーキング――その言葉におぼえはある。高校を卒業して以来、夜道で望の後をつけてくる人物がいた。兄に相談していた。けれどそれが将斗ならきっと気づいていた――
ひどい耳鳴りのする頭をふって、将斗のブルゾンにしがみつく。苦痛に顔を歪めた彼が望を見る。思わず出血しているところに視線をやると、彼は小さな声で「かすっただけだ」と言った。
将斗は望の肩を持って口を開く。
「東堂、それは違う。俺はおまえを見張ってた。朔太郎に頼まれてな」
「……なんだって?」
東堂がにじるよるのを止める。ナイフの刃先が少し下がる。兄の名前が出た望は混乱する。冷静にこの場を受け止めたい、けれど信じがたい現実が次々と襲い掛かってきて記憶に揺さぶりをかける。
「……先生、どういうこと」
「望が大学に通い始めた頃から、東堂が付け回してるって話を朔太郎から聞いた。もし東堂を見かけることがあったら、望に危害を加えないように見てくれないかと頼まれてたんだ」
「……大学入ってから? お兄ちゃんと連絡取ってたの?」
「そうだ……」
「お兄ちゃんも先生も、私に嘘ついてた?」
「……そうだ」
寂しげにそう言った彼をじっと見る。刃物を向けた東堂がこちらの様子を伺っている。兄の顔が思い浮かぶ。将斗の連絡先はわからないと言っていた。嘘をついているようには見えなかった。将斗は「朔太郎は元気か」と聞いてきた。本当はずっと連絡を取り合っていた。混乱する――最初から全部嘘だった?
「ねえ望ちゃん、こいつ最低でしょ。都合よく連れまわすために望ちゃんを待ち伏せしてたんだよ。滝川の車に乗るなんて危ないと思って僕が助けにきたんだ。望ちゃんを愛してるのはこの僕なんだ。滝川は大嘘つきなんだよ」
ナイフの刃先を揺らしながら東堂が言う。黒縁眼鏡の奥の目が弓状になっている。望に近づいてくる。血を流した将斗が前に立ちはだかろうとする、望はそれを押しよけて東堂に向かう。
「……違う! 先生は花を買いに行くつもりだったって言ってた。完成した絵を見せてくれた。凛子とお兄ちゃんのことを想って描いてくれた絵だった。私に見せたいと思ったって言ってくれた。その気持ちに、きっと嘘なんかない!」
怒りにわななく体から、荒れ狂う川のように激情があふれ出す。両親に守られ、兄に守られ、ぬくぬくと平穏な暮らしをしてきた自分のどこにこんな感情が眠っていたのかと思う。望はこぶしを震わせながら東堂に近づいていく。
「あなたがあの頃何を思っていたのかは知らない。お兄ちゃんも凛子も、みんな自分の感情にふたをしてた。でも先生は凛子とお兄ちゃんを大事に想ってくれた。それで十分なんです」
凛子の名を口にした途端、それが過去のことだと実感した。凛子はいない、自分は生きている。凛子の姿は写真や絵で見ることしかできない。自分はこうして怒り狂うことができる。その時間の隔たりに寂しさを感じる。
東堂はすっかり腕の力を抜いて、ナイフを下に向けていた。
「そうそう凛子ちゃん懐かしいね。僕、本当は凛子ちゃんがよかったんだよね」
「……え?」
「凛子ちゃんのためにあの曲を披露したのにさ、いつのまにか坂木が手を出してたし、なんか病気で余命がとか言うし、そんなのいらないなーと思って望ちゃんにしたの」
「何……言って」
再び口元が震えだす。東堂の声色は悪寒がするほど明るく、愛の告白のつもりらしかった。肩が震え始める。将斗が望の腕を握って「相手にするな」と言っている。将斗の声も、東堂の声も遠くかなたでエコーしている。現実味がなく、今こうして山頂付近に立っているのが夢かと思う。けれど苦しそうな面持ちをした将斗がいる。血が流れているのは幻じゃない。
「だってさあ、すぐ死んじゃう子なんでいらないじゃん?」
おどけた様子でそう言った東堂の姿が眼前にせまる。全身の血液が煮えたぎる。感覚神経は膨張し、思考回路と記憶がでんぐり返ったように望に圧しかかる。遠いところから「東堂!」と将斗の声が聞こえる。望は彼の手をふり払う。
「……凛子のことをそんな風に言うな!!」
言うなり東堂の胸倉につかみかかった。理性は吹っ飛んでいった。東堂の手にはナイフがあったはずだが全く見えなくなった。この男をこの世から消し去りたい――そんな衝動が望を突き動かした。髪をふり乱しながら東堂の体を押した。怒りで沸騰した涙があふれ出す――
その時、東堂が右手に持っていたナイフを振りかざした。望は喉仏に向かって手を伸ばした。刺されてもかまわない、この人間だけは許せない、絶対に――
「望、やめろ!!」
その声と共に将斗が東堂の手にあるナイフを蹴り飛ばした。と同時に東堂が「くそっ!」と叫んで望をふりちぎった。
腰を強く打って我に返った。ブルゾンの脇から血を流している将斗が東堂と取っ組み合いになっている。地面に転がった懐中電灯が彼らを照らす。