欠けた満月の日
絵なのだから誇張されているとしても、兄に似ていると思った。きっと遠い昔の先祖がどこかで繋がっているのだろうと思うと、また少し、将斗との距離が縮まる気がした。
***
家の外に出るなり、強烈な寒風が襲ってきた。指の先が千切れそうなほどの冷気が山を覆っている。震えながら軽装で来たことを後悔した。都会用のショートコートに薄っぺらいリクルートスーツ、黒いパンプスはいつの間にか泥だらけになっている。身を切り落とすような寒さが体に襲いかかる。
「そんな恰好じゃ体壊すぞ」
そう言って将斗は男性用のブルゾンを投げてよこした。いつの間にか彼も色違いのブルゾンを羽織っている。テレピン油の残り香がするブルゾンにそっと腕を入れる。生地が分厚く体温は保ってくれるが、重いしサイズが大きすぎる。
ショートコートの上から羽織ってもなおぶかぶかとしている袖を降っていると将斗が吹き出した。
「なんで笑うの」
「いやだって……おまえやっぱりお子様……」
言いながら、笑いが止まらないらしい。貸したのは自分のくせにと腹が立って借りた懐中電灯の光を向けると「こらっやめろ!」と望の手首を握った。
望はとっさに振り払った。跳ね上がった心臓がどくどくと鳴っている。手から離れた懐中電灯を彼が拾い上げる。
「あ……ごめん」
手首をつかんだのは将斗で、今目の前にいるのも彼だけだとわかっているのに全身から嫌な汗が吹き出して止まらない。
「いや、俺こそ悪かった」
眉を下げてそう言うと、ゆっくりと望の手を握った。手のひらから伝わってくる温もりが、心音を落ち着かせていく。
将斗に手を引かれながら、山道を黙々と歩いた。
周囲は一面暗闇に覆われ、時々どこからか動物の鳴き声が聞こえる。沢の音はどんどん近づいてくる。進むにつれて山道というよりは獣道になり、植物が生い茂る中を将斗はかき分けて進んでいく。
手首の感触を思い出す。あれは将斗だ、あの男とは全然違うと言い聞かせても、心臓は時折ずくりと痛む。高校三年の晩冬に見知らぬ男に手首を握られて以来、腕時計やブレスレットをつけられなくなった。兄にプレゼントしてもらった腕時計はその後ずっと部屋に飾っていた。
たいした記憶ではないと思おうとしている。あの時は将斗が助けてくれた。けれど雨の夜、冷たい雨が降っているとふいに不安になることがあった。将斗はいない、突然姿を消して、助けに来てくれることは二度とない――
「大丈夫か?」
将斗の声が思考を氷解させる。望は彼の手をぐっと握って石を乗り越える。今彼は目の前にいる。氷点下の寒さの中、望の手を引いている。生きている温もりが確かにある。なのにどうしてこんなに不安になるのだろう。
息を切らしながら彼についていく。山のざわめきが身を包む。体が熱くなり、汗がじわじわと出始める。息を飲んで将斗を見る。
一層険しい坂道を登りきると、突然、視界が開けた。
「う……わあ……」
そこは山の頂上だった。前方を遮るものは何もなく、薄雲の切れ間から月が見える。南東の空、雲の向こうに月が昇っている。ちぎれた雲を白く照らす満月は、目が眩むほどの輝きを放っていた。
その眼下に平野が広がる。山のすそ野に点在する灯りは斜面に沿って数を増し、光と光が融合して大きな輝きとなる。金と銅の粒が一面に散らばっている。規則正しく連なる車道の光は、数珠つなぎになって輝いている。そばの明かり同士が干渉し合って、光が揺れ動く。
空気は澄んでいた。息を吐くと、かすかに白い粒が宙に浮かんだ。望は空を仰いだ。風に乗って薄い雲がちぎれながら流れている。
「昔はここも展望台だったらしいけどな、今はすっかり寂れてしまった。俺の穴場だよ」
将斗は望の手を引いた。枯草の生い茂る中をためらいなく進んでいく。
大きな岩のあるところでぴたりと歩みを止めた。勢いあまった望を制止する。
「この下に大きな沢がある。ガキの頃、落っこちた」
そう言ってはにかんだ。望も口元がゆるむ。将斗が息を吐く。白く細かい粒が落下する。
望の黒い髪を撫でると夜空を仰いだ。「時間だ」と言って望の肩を持つ。
その瞬間、新円を描いていた満月の輪郭が、ぼやけはじめた。
望は目を凝らす。いつの間にか雲は流れ去り、満月だけが群青色の空で煌々と輝いている。けれど左下がわずかに欠けている。錯覚かと思い何度も瞬きをするが、黒く欠ける部分はじわじわと広がっていく。
「月が……欠けてる?」
「部分月食の始まりだ」
将斗は望から手を離すと、人差し指で夜空に大きな軌道を描く。それから欠けている満月を丸く描く。
「今夜は皆既月食なんだ。21時51分から皆既食が始まって、22時半には完全に地球の影に入る。」
「月食……」
「忘れたのか?」
俺は説明したはずだけどな、と言いたそうな目で望を見る。
「太陽、地球、月が一直線上に並ぶ満月の頃におこる現象……月が地球の影に入ると月が暗くなって見える……」
将斗の顔を見ながら、彼に何度も説明されたことを呪文のように繰り返す。彼は「よしよし」と言ってうなずく。
「暗くなるっていうよりは、本当に欠けて見えるね」
「そうだな。今の時期はこのあたりは氷点下になるし、空気も澄んでいる。よけいな明かりもない。月食自体は一年に何度か見られる現象だけど、今夜は部分食から本影食まで見られるまたとない機会だ」
そう言って月を見上げている彼の瞳は輝いていた。将斗が欠けていく満月を仰ぎ見る、その光景を望は見つめる。遥か彼方の山の峰、銀色にひらめく薄雲の流れ、藍より深い夜空で欠ける月、それを見上げる将斗、冷風に流れる彼の黒髪――
凛子と兄の絵を思い出す。あの絵の空は星が瞬いていた。今、将斗と望が見上げる夜空に星は見えない。欠けた満月が圧倒的に輝いている。
「あれはおまえだな」
「……どうして?」
「名前。満月のことは望月とも言う。朔太郎は朔月、新月のことだな」
将斗はそっと望の後ろに回ると、体に覆いかぶさった。胴体に腕が回り、耳のすぐそばで将斗の呼吸が聞こえる。
「……The world will be shine if you are here……」
耳元で将斗がささやく。それは歌のようにも詩のようにも聞こえた。「俺もそういう気分だよ」そうつぶやいた彼の体に少し力が入る。ブルゾンを通して伝わってくる体温を感じながら、その言葉をかみしめる。
高鳴る心音を感じながら兄の歌を思い出す。『Rins Song』の歌い出し、兄が震える声を押さえながら歌い始める。
――I can't say this feeling to you
(君には言えないね、こんな気持ち)
because I might make you cry
(だって泣かせてしまうかもしれないから)
今ならわかるような気がする。兄がこの曲を歌いたいと言ったこと、凛子が涙ぐんでいたこと、自分に隠していたこと、最初で最期のデートに行った、あの絵の二人の気持ちが――