欠けた満月の日
そう言って彼は更に奥の部屋に進んだ。突き当たりの部屋で裸電球をつけ、壁に立て掛けてあった無数のキャンバスに手をかける。その絵は居間に近いところにあった絵と違って、現代風の無機質な、荒々しいタッチのものばかりだった。
「学生のときは、こんな電気も水道もないくそ田舎には戻らないって思ってたんだけとな。親父は都市部で公務員として働いていたのに、わざわざこんな山奥に引っ越したんだ。親父は価値のあることだと繰り返し言ってたけど、俺はこんなとこくそくらえだと思ってた。有名な大学に行って就職して金稼いで、絶対見返してやるって、怒りに任せて描いてた頃のがこれ。今見るとほんとひどいよな」
そう言って将斗はキャンバスをなでた。真っ赤な絵の具で塗りたくられた抽象画は、彼の心のたぎりそのものだったのだろう。
「ここ数年で大型の台風がいくつも来て、生活がままならなくなった親父は結局街に出た。今この家には誰も住んでない。けど時々どうしようもなく描きたくなって、ここに籠ってる」
将斗はキャンバスの縁をなでた。水の音ががトントンとトタン屋根をたたく。車を下りたときの真っ暗闇を思い出す。気を抜いたら丸ごと食われてしまいそうな、圧倒的な自然があった。木々はざわめき、凍った地面は望の足を取ろうとした。再び嵐がくれば吹き飛んでしまいそうなこの古家で今でも絵を描いている。その年月の重みが、望の心を打つ。
「……おまえに見せたいものがあるんだ」
影のある面持ちでそう言うと、錆びたステンレスの棚から一辺が40センチほどのキャンバスを取り出した。
「……凛子」
ニット帽をかぶった凛子が兄に寄り添っていた。どこかの山頂に座り、降り落ちそうな星に見守られて、夜空を見上げていた。凛子を支える兄は、穏やかな眼差しをしていた。おとなしい兄だと思っていたけれど、こんな表情は見たことがなかった。
私もこの光景をこの目で見たかったと悔やんでも、もう凛子はいない。
将斗はキャンバスを壁に立て掛けて裸電球のスイッチを切った。望を誘って畳に腰を下す。一瞬の暗闇のあと、懐中電灯でキャンバスを照らす。藍色の空に浮かぶ白い星が不思議に煌めいている。
「遊佐に渡すつもりで描いたんだけどな。ここに来た五日後に遊佐はあの世に旅立ってしまった。下書きのまま続きが描けなくなって、長い間放置していたんだ。最近になってようやくキャンバスに色が見えるようになって、四年越しで完成したよ」
薄暗闇の中で将斗が微笑んでいる。この絵のように寄り添いたくなるけれど、うなずくだけにして我慢する。
「今日は遊佐の墓参りに行く予定だった。花を買いに行こうと車を出たとき、おまえを見つけた。おまえの顔を見たら、どうしてもこの絵を見せたいと思った」
懐中電灯の淡い光の中で、将斗が望の頭に手を伸ばす。
「俺の時間はずっとここで止まってた。でもこの絵を完成させたらおまえに会えた。おまえは勝手に先に進んでて、ちょっと悔しいけど、俺も少し動き出せるかなと思う」
一人言のようにそう言って、望の前髪をくしゃりとつぶした。将斗と同じ黒髪が彼の手でなでられる。胸がしめつけられるように苦しくなり、うつむく。
「この絵……どうするの」
「さあ……どうするかなあ。渡すはずだった遊佐はもういないから」
「お兄ちゃんはこの絵のこと知ってるの?」
「いや、知らないはずだけど」
「じゃあさ、お兄ちゃんにも見てもらったらどうかな。きっと喜ぶよ」
将斗は目を丸くした。手を下ろして、じっとキャンバスを見つめる。
「そう……だな。あいつに見せないとな」
そう言って将斗は立ち上がった。服についたほこりを払い、望の手を引いた。そのとき、黒い瞳の中の雫が光った気がした。
奥の部屋にある窓を開け、雨戸を押し上げる。時が止まっていた部屋に雪のあとの清涼な夜風が流れこみ、将斗は胸いっぱいに息を吸い込む。
「頃合いだな」
その言葉の意味はわからなかったけど、彼がいたずらっぽく笑ったので胸が高鳴った。うなずいて将斗の手を引く。嫌がられるかと少し考えたが、彼は意外にも笑っていた。隠し事ばかりされていたあの頃とは違い、彼の心に少し寄り添える気がした。
靴を履いていると、土間の奥にもう一部屋あることに気づいた。朽ちた木製の扉が半分空いている。土間はその部屋の奥まで続いていて、土足のまま入れるようだった。
「絵……が……」
懐中電灯で部屋を照らすなり、望は声を上げた。壁面は全て絵画で埋め尽くされ、長机の上には絵の具やパレットや鉛筆がぎっしりと置かれていた。イーゼルの上には描きかけのキャンバスが乗っている。足元にも絵の具が散らばり、床には居間とは比べ物にならないくらい大量の絵画が立て掛けられている。油絵の独特な刺激臭が部屋中に立ちこめている。不快ではない、どこか親しみのある匂いだった。
「そこは親父のアトリエだ」
振り返るとすぐうしろに将斗が立っていた。着ているシャツから香るタバコのにおいと、その奥からかすかに漂うテレピン油のにおい。家庭教師をしていたあの頃から、この匂いは将斗のものだと認識していた。きっとあの頃も、油絵を描いていたのだろう。
奥の方に似たアングルの男性の絵がある。焦げ茶色の薄い髪に蓄えた髭。将斗から聞いていた話を思い出し彼の父親の自画像かもしれないと思った。
目をこらすと別の人物画があった。入り口のそばに、画材に紛れるように立て掛けられている。
「ねえ、そこにある絵、先生が描いたの?」
「どれのことだ」
将斗が目を細めるので、絵画を指差した。深碧色で塗りたくられた背景に淡い栗色の髪が映える。
「これ、お兄ちゃんでしょ?」
「……どれ?」
「これ。だってさっきの絵に似てるから」
望が指差す方向を彼は凝視した。視線は確かに指差した絵に注がれているのに、将斗は黙ったままだ。そばに立つ彼の体から張りつめた空気が発生する。
「ごめん、違った?」
彼のただならぬ気配を察知した望は、わざとらしく明るい声を出した。何度も謝ったがなかなか望の方を見ない。呆然とした表情で立ち尽くしている。
「夜景、見に行こうよ」
将斗に言われた言葉をそのまま返して腕を引くと、彼の目の焦点があった。
「ああ……あれは俺の母親の絵なんだ。描いたのは俺じゃなくて親父……」
ワンテンポ遅れて彼が言葉を紡ぐ。望は「そうなんだ」と当たりさわりのない返事をする。
「髪が短いから男の人だと思っちゃった。ごめんね、変なこと言って」
「いや……俺こそ……」
そうつぶやいたきり、将斗は黙りこんでしまった。幼い頃に病死した彼の母親の話はタブーになっていたことを思い出した。望は適当に取り繕いながらパンプスに足を入れる。将斗も黙って靴をはき、戸締まりをする。
暗闇の中を歩く将斗の背中を見ながら、先ほどの絵画の女性を思い出した。栗色のやわらかそうな髪、淡いブラウンの瞳、少し下がった薄い目尻、頬の白さ、薄いくちびるーー