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短編集57(過去作品)

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電話の声



                 電話の声


 前の日、仕事で遅くなった渡辺清は、自分の部屋に帰ってきたのは、午後十時を過ぎていた。途中電車での帰宅になったが、ちょうど忘年会の時期とも重なって、電車の中は泥酔客が何人もいた。
――いい気なもんだぜ――
 羨ましいというよりも、情けなく思えてくるほどであった。公共の乗り物の中での醜態は、見る価値もないほど腐っている。
 しかも、普段はもっと早く帰っている連中だろう。それとも毎呑み歩いていて、もっと遅い電車での帰宅なのか、とも考えた。だが、そのほとんどが酒の呑み方を知らない連中だろうと思うことから、もっと早く帰宅している連中だろう。
 若い連中だけなら、若気の至りで見方も変わってくるが、会社では中間管理職の連中だと思うと腹が立ってくる。部下に仕事を押し付けて、自分たちはさっさと帰るんだから、本当に気楽なものだと思ってしまう。
 聞こえてくるのは上司への愚痴か、部下への愚痴、どちらも聞くに堪えないもので、特に部下への愚痴を聞いていると、自分の無能さを自らが暴露しているように思えてならない。要するに、自分の指導能力のなさを公に宣伝しているのと同じだからである。
 仕事は毎日の引き続きで、その日に終わるというわけではない。それだけに充実感は半減しているように思う。少しずつ進んでいて、実績を積み上げていく実感はあるのだが、達成感にはほど遠い。それだけ目標があるからなのだが、帰りの時間がズルズルになってしまうのも仕方のないことだ。
 事務所を最後に閉めるのは渡辺の仕事だった。残業一時間くらいまでは数人の社員がいるんだが、
「お疲れ様。お先に」
 とばかりに少しずつ帰っていく。最後には渡辺一人が残り、自分のスペースだけの電気がついていて、真っ暗な中に浮かび上がっている。
――きっと、まわりから見ると不気味なんだろうな――
 と感じる。
 十人もいないほどの小さな事務所。他の部署は、大きなフロアに集中していて、まるで役所のような雰囲気だ。天井からは、部署の札がぶら下がっていて、いくつかある入り口には、受付を兼ねたカウンターが設置してある。本部機能のほとんどが、そっちに入っているのだ。
 同じ本部機能の事務所なのだが、渡辺の所属する事務所だけは、個室のようになっている。事務所の奥には会議室が設けられていて、昼間は他の部署の出入りも激しいが、さすがに定時の午後六時を過ぎると、完全に隔離された事務所になってしまう。
 会社の中では忙しい部署ではない。
 渡辺の会社は、一人の社員に仕事が集中するという悪しき伝統のようなものがあって、
「あまりいい傾向じゃないよな」
 と皆口々に話してはいるが、どうにかなるものではない。その人の性格にも寄るのだろう。
 一生懸命に仕事をしていると、上司は認めてくれる。最初はそれなりに認めてくれて、給料が上がったり、出世が早かったりするが、会社はもっと貪欲なものだった。
 本人は、バイタリティに満ちているので、あまり気にしていないのかも知れないが、目標の百パーセント以上の仕事をすれば、次は、さらに今回以上の目標設定を望んでくる。さらに高いハードルを越えなければならなくならず、超えると、今度はまたさらにハードルが高くなる。
 そんなことの繰り返しだ。
 渡辺は、会社への目標とは別に、今の自分の仕事に満足したかった。ある意味自己満足に過ぎないと言われてしまえばそれまでなのだが、それでもよかった。
 自己満足というのは他人から見て、自己満足に見えるだけで、自己満足すらできない人間が、人を満足させられるわけはないと思っている。
 そういう意味では、開発部という部署は渡辺にとってうってつけの部署だった。誰から言われるわけでもなく、自分の思ったものに仕上げていくこと、これが渡辺の信念だった。
 もちろん、会社が設定した長期計画の一端を担っているものにしなければならない。それは分かっていることだった。
 最初は、帰っていく皆が羨ましくも思えたが、一人でコツコツと仕事をしていると、時間に対しての自己満足が生まれる。甘い考えかも知れないが、時間に対して自己満足を感じられるようになると、仕事が思うように進んだ。
 元々出世には興味がなかっただけに、コツコツとした仕事は望んでいたことだった。一人になると、仕事も捗ったものだ。
 自己満足の時間はあっという間に過ぎていく。気がつけば一人きりになっていることも多く、そんな時間帯が、ちょうどキリのいい時間でもあった。
 だが、その日はいつもと少し精神的に違っていた。
――他の人にはこの気持ちは分からないだろうな――
 と思えるほどで、仕事への充実感というものが少し欠けていた。
 仕事でのキリのよさが、その日に限って納得の行くものではなかった。だが、このまま仕事を続ける気力はすでになかった。一旦集中していた仕事から我に返ると、その瞬間から気合は完全に抜けてしまう。
「しょうがない。帰るか」
 机の周りを整理して、事務所内を見渡した。
「あれ? こんなに広かったかな?」
 自分のまわりしかついていない明かりなので、まわりがぼやけている。机の上に乗っているものが壁に向ってまるでシルエットのように浮かんで見える。
 その日、壁に写ったシルエットが揺れているように思えた。天井から自分のスペースだけを映し出している蛍光灯が作り出す影絵なので、揺れて見えるのはおかしい。
――疲れているのかな――
 眉間を思わず親指と人差し指で摘んでみた。目が疲れている時、眉間を押えてみるという行動は、目が疲れている時にやってみたが、どこに効果があるのか、最初は分からなかった。分かるようになってきたのは、夜一人で事務所に残って仕事をするようになってから、つまり、今の状況が最初だったのである。
 眉間を押えると、少し視力が回復したように思う。じっと目の前のパソコンのモニターに対してずっと作業をしているので、疲れも倍増である。しかも、まわりが薄暗いだけにモニターからの光は決して目にいいものではないだろう。それだけ疲れも溜まってくるというものだ。
 シルエットが揺れているように思うと、部屋の中が密室であるにも関わらず、風が吹いているように思えた。
 空調はすでに切っている。事務所に一人でいると、聞こえてくるのは、パソコンやプリンターの機械音だけである。機械音が聞こえてくると、表が寒くとも、暖かく感じられるのは錯覚かも知れない。だが、暖かさを感じるのは事実だった。
「そんなことで暖かさを感じられるなんて、羨ましいですね」
 後輩に話すと、きっとそんな返事も返ってくるだろう。渡辺よりも、若い連中は、もっともっと現実的に違いない。
 揺れるシルエットからしばし目が離せないでいると、
――まるでろうそくが作り出すシルエットのようだ――
 と思えてきた。
 そう感じてくると、急に恐ろしくなって、早く事務所から出たい衝動に駆られた。
――今日は本当に疲れているんだ――
 自分にそう言い聞かせることで落ち着こうとしたのだった。
作品名:短編集57(過去作品) 作家名:森本晃次