短編集57(過去作品)
――本を読んでみようか――
とも思ったが、元々眠気が来るので、今読んでしまってはもったいない。
夕べ、途中で起こされて、そこからあまり寝ていないので、本当であれば眠くなっても当然のはずだった。実際に会社では昼食を摂ってからの時間帯は、眠くて仕方がなかった。
それは今までと同じではあったが、特に今日は睡魔に襲われた。だが、眠ってしまいそうな寸前のところで、事務所の電話が鳴り響き、目覚ましの役目を果たしていた。
――これほど電話の音が怖いと感じたことはないな――
昨夜の電話の内容の意味がよく分からない。
「招かざる客が、あなたのところに来るでしょう」
と語った電話の主、考えてみれば、確かに早朝、招かざる客が部屋の前にいた。
彼を客と見るべきだろうか?
自分の知っている人ではない。まったく知らない人が部屋の前で、しかも酔っ払って座り込んでいたのだ。体調が悪いのであれば仕方ないことかも知れないが、酔っ払っての醜態である。これほど情けないものはないであろう。もし知っていたとしても、
「こんな人知りません」
と思わず口から出てくるかも知れないとも感じた。
顔はそれほどハッキリと見たわけではないが、もう一度合えば分かるかも知れない。もっともシラフでの表情は、誰が見ても紳士だったりするかも知れないと思う。そういう意味では、自分も酔っ払ったらあんな感じになってしまうのではないかと思うと、恐ろしさを感じた。
「渡辺さん、来客ですよ」
女性事務員が知らせてくれた。自分に来客など珍しい。ハッキリ言ってアポなしで突然の訪問客だった。
「はい、お待ちください」
上着を着て、ネクタイを整え、名刺を確認した。
「これでよし」
事務所の奥に設置されている簡易応接室へと向った。
「お待たせしました。私が渡辺です」
来客というのは男性二人であった。どちらの男の顔にも見覚えはない。とりあえず名刺を渡し、相手に座るように促した。
「ご丁寧にどうも」
少しぶっきらぼうに思えたが、それは態度に迫力があるからだ。よく見るともう一人は優しそうなおじさんである。
「実は私、こういうものです」
相手は手帳を差し出す。それは警察手帳で、喋っている人は、刑事で黙って一緒にいる人の肩書きは警部となっている。
思わず身体を硬くして身構えてしまった。警察に訪ねてこられたことなどもちろん初めてで、
――なるほど、迫力あって当然だ――
と感じるのがやっとだった。
「一体私に何を?」
「ああ、いえ、渡辺さんがどうのというわけではありませんので、それほど身構えることはありませんよ。実は今朝の男性の件なんですよ」
「ああ、私の部屋の前にいた男性ですね?」
「ええ、そうです。彼の身元を今調査中なので、渡辺さんにもご協力をいただきたいと思いましてですね」
言葉は優しそうでゆっくりとした口調であるが、ゆっくりであるがゆえに、却って不気味である。
「私も初めて見る男性なので、誰だか分からないんですよ。もっともあれだけ泥酔していて、ずっと下を向いていれば分からないですね」
「そうですか」
「ご本人に直接聞かれてはいかがですか? 酔っているだけだったら、酔いは覚めているじゃないでしょうか?」
下を向いていた警部の方が、少し顔を上げた。やはり迫力のある顔ではある。
少し投げやりな言い方をしてしまったことへの戒めであろうか、警部の表情が少しこわばっているように見えた。
若い刑事の方が渡辺の話を聞いて、
「いや、確かに意識は戻ったんですが……」
もったいぶっている。どういうことなのだろう?
刑事は続けた。
「その男性はですね。自分が誰なのか分からないようなんですよ」
「記憶喪失ということですか?」
「ええ、それも普通の記憶喪失とはまた少し違っていまして」
「というと?」
「その日の行動はある程度断片的に覚えているようなんですが、それ以外のことはまるっきりなんですね。その日会社の帰りに馴染みの呑み屋で焼酎をたくさん飲んだ。そのまま家に帰って寝ていたはずだと思うというんです」
「それじゃあ、家の近所の人とか、その日に飲んだ呑み屋で聞いてみればいいんじゃないですか?」
「それが、本人もそれがどこだか分からないらしいんですよ」
どうにも掴みどころのない話である。
「どうも、お話を聞いているだけでは、実に都合のいい記憶の失い方ですね」
「そうなんですよ。都合がいいのか悪いのか、そこまで今は分かりませんけどね。ただ、身元がまったく分からないんですよ」
そういえば男が着ていた服はジャージのようなパジャマのような服であった。身元を証明するようなものを持っていたようには思えない。
男を見た時、表情だけに目が行って、服装のことまで気が回らなかった。もう一つは、――自分が同じようにそこに泥酔していたらどんな気分になるんだろう――
と思った。
自分がそこまで泥酔することはありえない。だから、男が記憶を失っているというが、記憶を失うこと自体、半分信じられない。しかもおかしなところの記憶はあるという。ますます信じられない。
だが、酒に酔っていない時に、記憶を失ったことが過去にあった。
あれは、高校の時だっただろうか。学校から遠足の一環として、登山をしたことがあった。
オリエンテーリングと呼ばれるもので、大会も開かれる。地図とコンパスを元に、開始地点と目的地の間にいくつかのチェックポイントがある。チェックポイントには文字が書かれているので、それをキチンと記入して目的地にいかに早く到着できるかという競技である。
学校行事の一環なので、タイムが目的ではない。遠足の代わりなので、あくまでも課外授業のようなものだ。
本来は一人での行動なのだが、ほとんどの生徒がオリエンテーリングは初心者である。そのため、五人で一組の班が結成された。
渡辺は仲のいい友達と班を組んだが、その中の一人にオリエンテーリング経験者がいた。経験者というだけではなく、何度か大会にも出場しているつわものでもあった。
「俺がいるから、皆大船に乗った気でいてくれよ」
と頼もしいことを言ってくれる。
彼を中心に出発していった。スタートはそれぞれの班が重ならないように、五分おきくらいにそれぞれ時間をずらすようにしていたのだ。
最初は、その友達の話の通り、いくつかのチェックポイントを難なくこなしていく。
「これなら、意外といいタイムが出るかも知れないな」
と誰かが言ったそのすぐ後に、
「あれ? ちょっと違うぞ」
あれだけ自信に溢れていた友達が、不安そうな顔をしている。
「おいおい、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だと思うが」
まわりに不安感が一気に襲ってきた。最初から不安で出発しているなら、慎重に事に当たることができたであろうが、完全に任せていた相手に不安がられては、まわりの雰囲気が最悪だ。そんな時、渡辺は立ちくらみを起こしてしまった。
「大丈夫か?」
まわりの心配してくれる声が遠くの方で聞こえる。そして目が覚めた時、自分が誰だか、一瞬分からなくなっていた。
「俺、誰なんだ?」
「何言ってるんだよ」
作品名:短編集57(過去作品) 作家名:森本晃次