短編集57(過去作品)
熟睡していればそこまではないのだろうが、目が覚めると耳障りである。新聞配達が来る前に目を覚ましておく方がいいだろう。
寒い時期はどこかからかすきま風が通りぬけるようで、布団から出るのが辛い。だが、一度意を決して飛び起きると、身体が感じなくなる。着替える時が寒いくらいで、それでもリビングに入れた暖房が効いてくると、だいぶ楽である。
一LDKの部屋で、リビング以外は寝室兼書斎になっている。書斎といっても名ばかりで、本を置いてある程度である。
寝室は寒くても布団に入っていれば何とかなるが、リビングは暖房があるとないとではかなり違う。最近でこそ、朝喫茶店のモーニングサービスを利用するようになったが、それまではトーストにコーヒーを自分で作っていた。今ほど早起きをしていなかった時期だったが、生活のリズムの一つであった。
その日は新聞配達の人がまだ来ていない時間に目を覚ましたようで、郵便受けに取りにいくと、新聞が入っていなかった。耳を済ませると、革靴が階段を昇ってくる乾いた音が聞こえた。
「ガタン」
何かが倒れる音がしたかと思うと、
「もしもし」
誰かに話し掛ける声が聞こえる。話し掛けているのは若い男性の声だったので、新聞配達の人だろう。
思わず扉を開けて、表を覗き込むと、郵便配達の人が何かを覗き込んでいた。こちらが扉を開けるのに最初は気付いていなかったほど、集中していたのだろう。
「あの」
と声を掛けるとビックリしたかのようにこちらを振り向く。
まだ高校生かと思うほどあどけなさの残った少年は、いかにも新聞配達に似合いそうだった。そんな少年が、怯える姿を見ると、こちらまで何か不気味な感じがしてくるから不思議だった。
「すみません。こ、この人、お知り合いの方ですか?」
少年は喉が枯れているのか、はっきりと声が出ないようだった。
言われて覗き込むと、そこには、壁に背中を預けるようにして座っている男が無造作に足を投げ出していた。頭はうなだれていて、一瞬、死んでいるのかと疑いたくなるほどだった。
少年にこの場を任せるわけにはいかず、サンダルを履いて表に出た。顔を近づけてみると、寝息のような声を上げていたので、一安心だった。
「大丈夫、息はしているよ」
と言って、今度は相手の身体を揺らして起こそうとしてみた。
「もしもし、こんなところで寝ていると、風邪を引きますよ」
男は目を覚まそうとしない。それでも揺すり続けると、
「ううっ」
と呻いたかと思うと、少しだけ顔を上げた。それでも正面を見ることができないのか、よく見ると唇が震えていた。
――危ない薬でもやってるんじゃないだろうな――
そう感じると、
「ちょっと警察に電話してくる」
と言って、携帯電話を持ち出して、警察へ連絡した。
「不審者がマンションの廊下で寝ているんですが。どうも具合が悪いようなので、すみませんが、来てもらえますか?」
マンション名を言って、警察の到着を待った。それから十分ほどで交番から制服警官が二人駆けつけてきた。
「通報ありがとうございます」
「いえいえ」
警察が到着するまでの時間の長かったこと、このまま待っていて、本当に来るのかどうか半分不安にもなっていた。
「どうしたんですか?」
警官が話し掛けるが、何とも要領を得ない。
「しょうがない、交番まで運ぼう」
二人で担ぐようにして、エレベーターまで連れて行って中に入れた。
「どうもかなり酔っているみたいですね。どうしてこの場所にいたのかなど、もう少し酔いが覚めてからでないと分からないでしょう。ところで、お二人はあの人と面識は?」
「いえ、それがないんですよ」
軽い事情聴取のような感じだったが、とりあえず男の身元が分からないことには警察もどうにも動けないのだろう。聞かれるのも当然であった。
「そうですか、まずは彼の意識が戻るまでですね。またご連絡するかも知れませんが、その時はよろしくご協力お願いいたします」
警官は丁寧に頭を下げて戻っていった。取り残された二人は、一瞬目を合わせた。
「夢でも見ているんじゃないか」
お互いに心の中で呟いていたに違いない。
渡辺は部屋に戻って、その日のリズムが完全に狂ってしまったことを自覚していた。
その日は、仕事もままならず、結局早めの帰宅になった。
「渡辺さん、今日は早いですね」
「ああ、朝から出鼻をくじかれたからね。明日からまたがんばるさ」
それでも、その日の自分が科したノルマ分はこなしていた。精神的に不安定でも仕事だけはちゃんとこなす。それが渡辺のモットーだった。
部屋に帰ると、一人である。今までは帰ってから本を読んで寝るだけの毎日で、静寂に囲まれた部屋だったが、その日はいつになく早く帰ってきたこともあって、テレビをつけてみた。
ゴールデンタイムのドラマには興味はない。続き物で、一回でも見逃すと気になって仕方がないという、まるで製作者の術中に嵌ってしまったようで癪だった。しかも毎日の仕事の方が筋書きのあるドラマよりも面白い。それを思うと、ドラマは見る気もしなくなっていた。
バラエティ番組も、学生時代は嫌いだった。
やらせのように見えていて、
「これの何が面白いんだ?」
まずそう感じるのが面白くない証拠だと思っていた。ブラウン管の向こうにいる芸人たちが、自分たちで楽しんでいるだけだとしか思わなかったからだ。
だが、それも学生時代に感じたこと、今では少し変わってきている。
「彼らもしっかり自分の芸を持っていて、それを必死でアピールしている。これも一つの芸術の形なんだ」
と思えば、少しは見方も変わってくる。
バラエティを見ていると、何も考えないでいいところがいいのだ。何かをしながらテレビがついているというのも悪くはない。特に今までずっと静寂を保ってきたこの部屋。死んでいるこの部屋に息吹を吹き込むのもいいだろう。そんな気持ちでバラエティを見ていた。
思わず笑っている自分に気付く。
――こんな風に思わず笑ってしまうなどいつ以来だろう――
学生の頃にはそんな毎日だった。では学生の頃と今とでは何が変わったというのだろう?
一番変わったのは、まわりに人がいるかいないかである。
会社に行けば、上司、同僚、後輩、部下、いろいろいるが、本音を語り合える人など誰一人としていない。そういえば、大学を卒業し、社会人になる時に一番不安だったのが、本音を言える仲間となかなか会えなくなることだった。
実際に会社に入れば、皆それぞれで忙しい。休みの日に、
「今度の日曜日、会わないか?」
入社して三ヶ月くらいの頃、学生時代の友達に声を掛けると、
「いや、悪いけど、今は仕事を覚えるのに必死でな」
申し訳なさそうにしているが、本当に申し訳ないのはこっちである。相手の事情を聞くこともなく、昔のイメージで軽い気持ちで電話してしまったのだから、相手の気持ちを考えていないと言われても仕方のないことだろう。
早く帰ってきたのだから、体力的にも精神的にもさらには時間的にも余裕はあった。
――長い夜をいかにして過ごそうか――
と考えていたが、テレビを見ていても、普段しないことなので、すぐに退屈してしまう。
作品名:短編集57(過去作品) 作家名:森本晃次