短編集57(過去作品)
その日は、
――気がつけば眠っていた――
という部類に入るのだろう。気持ちよく眠りに就けた。予定では朝まで目を覚まさないコースだっただろう。
「ジリリリ」
電話のけたたましい音が静寂を破った。
「なんだい一体。今何時だ?」
声がかすれていた。空気が乾燥しているのは分かっているので、何か水分を含まないと声が出せないかも知れない。寝ていて喉が渇いて、完全に起きてしまうのも癪なので、いつも水差しとコップは枕元に置いてある。
コップに水を汲んで、一口喉に流し込むまでのスピードは早かったことだろう。電話に対して、ぼやけた頭で律儀に反応していたのだ。
電話は枕元に置いてある。携帯電話全盛の今の世の中、一般電話に掛かってくることも珍しい。もちろん、会社でも連絡はほとんどが携帯電話だ。一体、こんな時間に誰なのだろう。
「はい、もしもし」
それでも声はかすれている。完全に寝起きなのは分かるだろう。それにしても何時なんだろうと枕元の時計を手繰り寄せると、二時半を指していた。
――なんだ、草木も眠る丑三つ時か――
と古風な表現だが、その表現がピッタリの時間帯であった。
電話の主はしばし無言だった。無言ではあったが、受話器からは何か息遣いのようなものが聞こえている。
――相手も緊張しているんだ――
と感じたが、自分も心臓の鼓動を感じることができるくらいに、動悸が激しくなっている。
「今朝……」
やっと相手が口を開いた。声は思ったよりも低い声だが、女性に聞こえなくもない。
――声を変えているんだろうな――
と思うほど、声に張りがなく、あまりにもゆっくりと話をしている。
「今朝……」
と言ってから、しばらく次の言葉が出てこない。息遣いを感じながら待っていると、やっと聞こえてきた。
「招かざる客が、あなたのところに来るでしょう」
という言葉を残し、また黙り込んでしまった。
「あの、どちらにおかけでしょうか?」
相手がこちらを名指しせずに「あなた」という二人称を使ったのも何となく胡散臭い。いたずら電話の類に違いないと思ったが、いきなり怒り出してしまっては、相手の真意が分からない。そこで、やんわりと訊ねてみた。
「渡辺さんでしょう? 渡辺清さん」
相手はずばり渡辺の名前を指摘した。フルネームまで言い当てたのである。間違いなく間違いでもいたずらでもない。
電話の声の主に聞き覚えはない。もっとも、こんな時間にかけてきて、まだ半分頭が寝ている状態で、電話の主が誰であるかなど、すぐに分かるわけもなかった。
しかも相手は明らかに声を変えている。
――ということは、声を聞けばすぐに相手が誰だか分かるということなのか?
だが、声には聴き覚えがある。実に身近な人間の声には違いないが、思い出せない。これほどイライラすることもない。
「君は一体誰なんだ?」
聞かないわけにはいかない。
「ミスターXとでもしておこうか?」
「ははは、ふざけないでくださいよ。こちらも真剣に聞いているんですからね。これであなたの話に信憑性がないことが分かりました。いたずらはやめてください」
この言葉には二つの意味があった。
一つは、怒らせて、興奮した状態でどんな声、喋り方になるかを見たかったのだ。冷静に話している時であれば、声は喋り方の特徴をごまかすことができるが、感情的になると、少しは変わってくると思ったからである。
もう一つは本当に相手の気持ちを聞きたかった。わざわざこんな時間にかけてくるということは本当に嫌がらせか、心配してくれているからに違いない。知っている声だからこそ、無下に悪戯だと決め付けたくはない。
それにしても、ミスターXとはよく言ったものだ。ある意味、そのくだらなさは、自分に通じるところがあるとさえ思った。寝込みを起こされてイラついているわりには、意外と冷静な自分にビックリしている渡辺だった。
「あなたは悪戯だと思っているんですね? まあいいでしょう。数時間後には分かることです。睡眠の邪魔をして申し訳ありませんでした。ごゆっくりとお休みください」
と言って、再度聞き耳を立てていると、
「ツーツー」
相手は電話を切ったようだ。
「まったく困ったもんだ」
再度電気を消して眠りに就こうとするが、なかなか気がたってしまって眠れるものではない。
眠れなくても眠らなければならない。今朝からまた仕事なのだし、何よりも自分の生活リズムを狂わされたことに腹が立つ。
一人暮らしの一番いいところは、自分のペースを守っていけるところだった。学生時代であれば、結構夜更かしをしたり無理をしたものだが、社会人になると、どうしても仕事を中心に考えてしまう。
一人暮らしというのは、結構寂しいものだ。結婚して奥さんがいろいろまわりのことをしてくれる人を見ていると、羨ましい限りである。一人でいることの寂しさが、自分にとってどうにもならないことだと現実的に考えるからだ。
だが、結婚した連中から言わせれば、自分のペースではなかなか生活できないという。当然相手がいるわけなので、プライベートの時間は一気に減ってしまうのが、悩みの種だというのだ。
それだけに一人暮らしの中での恩恵として持っているはずの、自分のペースで過ごせる時間を他人に狂わされることを一番嫌う。
一人暮らしをしていると、逆に自分のペースをしっかりと持っていないと、もったいないと思う。
「一人は自由でいいよな」
結婚した連中から言われるが、決して皮肉ではないだろう。
「結婚は人生の墓場っていうが、本当なんだろうか」
新婚でそんなことをいうやつも出る始末。もちろん、いきなりそんなことを実感しているわけではないだろうが、何か兆候があるから感じることだ。しみじみと話しているのを聞いていると、
「そんなこと言うなよ。これから結婚を控えている人間に対して夢を打ち砕くようなものじゃないか」
「ごめん、ごめん。でも、自由というのが今さらながら大切だって、今になって思うよ」
「そういえば、学校を卒業してから、もっと勉強しておけばよかったって思うこともあるな。小学生の頃に、親から、もっと勉強しなさいと言われ続けていたので、勉強って、させられているという意識が根本的なところであるんだろうな」
後になって考えれば、後悔に繋がることはたくさんあるかも知れない。それでも、
「今からでも遅くないか」
雑学の本を読んだり、歴史の本を読み漁った時期もあった。あれは通勤時間の電車の中でだったが、結局眠くなるので、それもやめてしまった。
いろいろなことを順序だてて考えていると、いつの間にか眠ってしまっていたようで、気がつけば朝になっていた。それでも時計を見ればまだ六時。普段よりも少し早い起床になった。
近所の犬が朝になると吠えまくる。どこかから苦情を言われているとも聞いたことがあるが、相手が犬なので、なかなか話が進まない。本当であれば渡辺も苦情を言いたいくらいであるが、慣れてくるとそれも億劫だ。
「朝六時の目覚ましと思えばいい」
とりあえず自分の中で納得してみた。
ちょうど同じくらいに新聞屋さんが郵便受けを鳴らしていく。静かな部屋に響く郵便受けの音は結構耳に響く。
作品名:短編集57(過去作品) 作家名:森本晃次